第六章 「叔父の口から語られる本田老人」
しばらくもしないうちに、叔父がダイニングから六本詰めの缶ビールと二つの空のグラスを手に戻ってきた。我々はビールの並々注がれたグラスを手に乾杯した。叔父はちょっとだけ口をつけると、あとはおもしろおかしく僕を見つめていた。甥の成長を目の当たりにすることで初めて、現実をより現実味のあるものとして捉えられたみたいに。
「うまいか?」と彼はややあって訊いた。
僕は肯いた。「本田さんなんですけど、叔父さんとはどんな風に出会ったんですか?」
「本田さんとおれ?」
僕はもういちど肯いた。「ずっと気になっていたんですよ。歳も離れてるし、住む場所も全然違う、本田さんには血縁もいない──じゃあどうして知り合えたんだろう、と思って」
「本田さんはね」叔父はグラスの位置を直し、両膝に肘を置いて唇の前で手を組んだ。それは彼がなにか真剣な話をするときのちょっとした癖だった。「おれが二十五かそこいらのときに偶然会ったんだよ。まあ偶然と言ってもあれさ、おれが役所に勤めていたころだね……あのころは──」そこでいったん言葉を切り、叔父はビールを一口飲んだ。「ちょっと長くなっちゃうけどいいかな?」
かまわない、と僕は言った。家の中はしんと静まり返っていた。時おり庭にとまった雀たちが午後の平穏をさえずった。
「あのころは散々な状況を目の当たりにしたよ」と叔父はふたたび語りだした。「本田さんは生活保護を申請しに役所に来てたんだ。本人がそう望んだわけじゃなかったけど、気のいい隣人がいてね、その人が無理に連れてった。でも、そのころの役所は警察の天下りが激しい時期でさ、役所には生活保護課っていうのがあるんだけど、そこもそりゃあ元警察官の巣窟だった……で、そいつらがまず始めになにをしたかっていうと、片っ端から生活保護を打ち切ったんだよ。いささかの躊躇もなく。予算内に収めるよう上から言われていたんだな。それで連中は給料に色をつけてもらえるってわけさ。ホームレスから職を失くした人まで片っ端から奈落の底に落とされた。──いいかい、ホームレスだって条件に適えばちゃーんと保護を受けられるんだ」
僕は相槌を打ったが、その事柄についてはすでに認知していた。
「本田さんもその犠牲者の中のひとりだったってわけだ。本田さんは圭ちゃんも知ってるとおり、天涯孤独の身だろう? 世の中でいちばん生活保護を必要としてる人間だ。けどあいつらは相手がその手のことに──つまり法律のことにくわしくないとわかってるもんだから、でまかせ言ってうまく煙にまいちまうんだな。おれはもうさすがに見てられなかった。いちおう上司だし、ずっと年上だったんだけど、びしっと言ってやったね。そしたらなんと奴ら自分たちの正当性をおれに説いてきやがった。なにせ元警察官だからね、言いくるめるのがうまいうまい。おれもまだ若かったからゆずれなくってさ、しまいにはカッとなって、胸ぐら掴んでデスクに放り投げちまった……で、こうだ」
彼は水面からやっとこさ首を突き出したような顔をして、首を切られるポーズをしてみせた。
「あのときばかりはさすがにまいったね。まさかまさかの懲戒免職だ。停職までは覚悟してたが……でもまあそのあと本田さんが生活保護を受けられることになってほっとしたよ。同僚にいい子がいてさ、その子がなんとか本田さんの生活保護を受諾するように手を打ってくれたんだ」そのあとで叔父は恥じらいを隠すためか、ひときわ大きな声を放った。「そしてその子が今ではおれの女房ってわけだ!」
「いささか出来すぎた話ですね」
叔父は笑った。「そうだよな、本当にそうだ。それでよけいに俺たちは本田さんのことが放っておけなくなったんだな、きっと。色々なことを世話したよ。使わなくなった家具、布団、住むところ。まあそのほとんどを拒否されたけどね。ほら、あの人は着の身着のままで生活するような人だろう? せめてもう少しいい暮らしをさせてやりたかったんだけど、本田さんはそれを拒んだ。他人の手ほどきは受けん、ってな具合にだ。でもまあ住居だけはどうしようもないってんで俺が役所の同僚に言って手配させた。それがあの千葉の外房の家だな。ボランティアが世間に認知されてきたころだったからヘルパーの人もすぐについたよ。ラッキーだった」
叔父は一息にビールを飲み干し、僕もそれに続いた。
「だけど役人がそんなことをしてるだなんて全然──」
「なにも見るからに悪い人たちっていうんじゃないんだ」と彼は僕の言葉をさえぎった。それから素早い手つきで煙草に火を点し、首を振った。「全然そんなじゃない。普通の人たちだよ、いわゆる。おれは思うんだけどね、いったんそういうシステムの中に組み込まれちゃうと、善悪の判断なんてのは二の次・三の次になっちまうんじゃねえのかな。世の中の仕事なんて大体そうなんだ。それが当たり前。金をもらうってのはそういうことなんだよ、圭ちゃん。くれぐれも気をつけな」
時計の針が三時半を打った。叔父は僕の腕時計にちらっと目を配ってから、「うん、よく似合ってる」と肯いた。
「たぶん圭ちゃんはおれと似たところがあるんだな」と叔父はだしぬけに告げた。「ふとしたときに本田さんが気にかかるんだろう?」
「どうしてわかったんですか」
「圭ちゃんはあまり物事を考え込まずに直感で行動するタイプだ。いや、自分の感じたことを素直に信じるタイプだ。冷静そうな見た目とは裏腹にね。昨日今日本田さんが亡くなったことを伝えたのに今じゃここにいる。普通の人はとりあえず考えるんだ。いつだってとりあえずね。でも時間が経つにつれてその考えみたいなものは自然に古びていく──現実味を失っていくっていうかさ。そういうのを圭ちゃんはちゃんとわかってる。それに君はおれと違って忍耐力もある、ずっとね。辛抱強いだけにうまく事が運ばないこともあるんだろうが……本田さんの言っていたことがおれにも今わかるような気がするよ」
叔父の話しぶりには、いつの間にやら深い感傷が込められているように見えた。彼の話に聞き入りすぎてしまったせいもあって、僕はいっとき謙遜することすら忘れてしまった。
「そんな大仰というか、立派な人間じゃありませんよ、僕は。むしろなにごとも必死なくらいで──」
「そういう必死さも含めて」と有無を言わさぬ感じで叔父は言った。そうか、酔いが回り始めているんだな、と僕は気づいた。彼の表情には<たまには甥をたっぷり褒めたってバチは当たらないだろうが>という微笑が浮かんでいた。
叔父は顔を赤くして立ち上がり、僕の肩を二度叩いた。それからごつごつした灰皿に煙草の先端を押し付けた。
「退屈しのぎになにかやろう」と彼は両手を胸の前で打った。「できれば勝負ごとがいいね」