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第一章 「東大と学生の群れ、医学とコカ・コーラ」

 駒場東大前で降りたとき、日差しはピークに達していた。角砂糖の山に似た都心部が煌々と溶け出し、人々を重く甘ったるい海に沈めていた。なにもかもの陰影がはっきりとしすぎているせいで、空を見上げると目がちかちかするほどだった。ホームはほとんど学生で埋まっている。彼らは僕も含め特徴のない人間ばかりだった。少なくともたった今世界紀行を終え、満たされぬ知的好奇心に従って万物を極めようという意志と決意のありそうな人間はいなかった。もっとはっきり言えば、とてもこの中に何か突出した能力を持つ人間がいるとは思えない、ということだった。この世の五割の人間は見た目で判断できるものだと思うが、こればかりは例外だろうと思う。彼らはなにせファンタスティックなのだから。他の誰がなんと言おうと。

 大学の敷地はおそろしく広く、そしてどこも人で溢れ返っていた。見た顔は何人かいたが、まともに話したことのある人間は見当たらなかった。僕は農学部の正門をくぐって右に折れ、キャンパスをぐるりと半周まわって医学部の付属病院に入った。中はうだるような暑さの外気に比べると、一瞬身が凍りついてしまうんじゃないかというくらい冷房が効いていた。実際、入ってきた何人かは自身の肩を両手で抱くようにさすった。梓は病院の大きな受付の端に寄りかかって腕を組み、白衣に身を包んでちょうど何かに目を引かれて後ろを振り向いているところらしかった。

 歩いていって僕が声をかけると、彼女はぎょっとして僕を見つめた。それからすぐに責めるような、たった今なにか散々たる失敗を目にしたかのように額に手をあて「もう」と悩ましげな言葉を宙に放った。

 「ごめん」と僕は言った。でもそれは却って彼女を勢いづかせたかたちになってしまった。

 「ごめんじゃなくて」と有無を言わさぬ口調で梓は言った。「どれだけ待ったと思うの。ほんとに遅い。一体何やってたの? 電話は全然繋がらないし」

 「電車の中だったから電源を切ってた」と正直に僕は白状した。「でもあのあとすぐに出たんだよ。あの電話のあとすぐに」

 「どこに住んでるっけ。神奈川?」

 そうだ、と僕は言った。

 彼女はため息をついて僕の腕を取った。

 「始まってるから急ごう。もう説教はあと」

 「ごめん」と僕はもういちど言った。


 これは世の中の誰にでも言えることだとは思うけれど、僕は病院という場所があまり好きではない。辺りには薬品と消毒液を渾然一体としたような匂いが立ちこめ、すれ違う人々はみな目に見えない病そのもののような労苦を背負い、頭をいくぶん垂れたままとぼとぼと歩いている。そして個人的にも病院にはひとつトラウマがあった。僕はもともと麻酔の効きにくい体質で、小学生のころに大怪我(とりたてて平和な僕の人生の中ではそれは大怪我に属した)をした時分、何本も麻酔注射を打たれた挙句に結局は地獄のような痛みを感じながら、そして鋼鉄が皮膚を貫く身震いするような感触を味わいながら足の指先を縫ったという過去がある。それに医学の勉強はおよそ僕向きではない。このジャンルに関して言えばということだが、紅茶を一杯入れるのに二時間かかる神経症患者の方が少なくとも僕よりはまともな働きをすることだろう。

 僕にはあらゆる点で欠陥が多すぎた。何事も自分のペースでやらなければ、それも勝手知ったる環境でなければ十分な力を発揮することができないのだ。ひとたび緊張状態に置かれるなり、全ての歯車があべこべに動いて軋みを立て、ほとんどパニックに近い状態にまで追い込まれる。飽和状態というのがそれに近いんじゃないかとは思う。あまりの忙しさに今自分が何をやっているのかわからなくなったり、するべきことが多すぎて何から何まで手につかなくなった覚えのある人間には僕のこの気持ちがよくわかるはずだ。とにかく僕はこの馬鹿げたシステムに自分を投機したことで、却って自らに信用を置けなくなり、どこにいてもまず時間を確認するという弱気な癖がついてしまった。それに誰か他人の命をあずかるような身分になれば、僕の能力はもっと制限されたものになってしまうだろう。医学の授業で今のところためになったのは、ヘロインがもともと咳止め薬として販売されていたことと、コカ・コーラに実際にコカ葉のエキスが入っていたことくらいだった。

 「何時から始まってるの?」と廊下を歩きながら僕は梓に訊いてみた。

 「十二時半」と機械的に彼女は答える。それから急に母親みたいな口調になった。「ねえ、おととい配られたでしょう、通知の紙が。見てないの? それに昨日もそのことでメール送ったし」

 「返してないや」

 「そう、返されてません。──ねえどうしてそんなにいつもすぐ何かを忘れちゃうの?」

 僕は何も答えられなかった。ごめんという言葉を口にしかけて、その言葉の奥行きのなさに辟易してしまったのだ。

 「ちゃんとしてよね」と彼女は僕を見上げ、それから何か古い出来事を思い出すような、かげりのある笑みを浮かべた。「ここは気楽な学校じゃないんだから」

 「ここ病院だよ?」

 「違う」と彼女はきっぱり言った。「ここは東大の医学部付属病院。東京大学のね」そのあとで早口でこう付け加える。「頭のいい人間ばっかりなんだから」

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