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第五章 「重なる情景、長野にて」

 そのあと彼は僕に言ったとおり、東京大学への進学を様々な人間から推し進められたが断固として首を振り、杉並区にある大学に進学した。梓はどうしてなのかとしつこく義弘を問い詰めたが、義弘はそのたびに勉強と距離を置きたいからだと言った。そのときの彼はもう吹っ切れているようでもあった。僕は義弘と会って話したことを誰にも言わなかった。たぶん義弘も言わなかっただろうと思う。


 目を開けたとき、腕時計の針は四十分進んでいた。新幹線はおそらく山梨のどこかを走っていた。僕は日よけを上げて景色を眺めたが、太陽はずっと真上に昇り、新幹線の窓からはもう見えなかった。僕は座席の上で大きくのびをして一度立ち上がり、体とずれた服の帳尻をきちんとあわせた。そして本を開き、また続きを読んだ。正午近くのことだった。

 長野駅に着くと、いつもとは違う風が僕の体を撫でた。それは高原の匂いであり、同時に冒険心を含んだ別の土地の匂いだった。少し肌寒かったので僕はTシャツの上にボタンダウンのシャツを羽織り、叔父さんの家に電話をした。着いたことを知らせると叔父はすぐに家を出ると行った。

 「どこか適当にそこらをぶらついてみてもいいよ。そのかわり三十分後には駅にいてくれな」

 僕は荷物を肩にしょいなおし、目をつぶってもう一度息を吸い込んでみた。駅の周辺は帰省の人々や旅行者で賑わっている。僕は通りを歩き、目についた喫茶店に入ってコーヒーを一杯頼んだ。タバコを吸いながらそれをゆっくりと味わい、僕は土地に身体を馴染ませようと努めた。自分の住んでいたところを離れると、そこに住んでいる人々の顔もまるで違って見えた。どうしてだろう、と僕は思った。みんながみんな幸せで、僕とは別の世界に住む人間みたいに見えるのだ。

 コーヒーを飲み終えると僕は荷物の入ったボストンバッグを開け、中身をひとつひとつ確かめた。着替え(それは実家に置いてあったものだからろくなものじゃなかった)、歯ブラシ、携帯電話、読みかけの小説、ポラロイドカメラ。僕は時間を確認してからバッグの底に埋まった小説を取り出し、それをテーブルの上に重ねた。スコット・フィッツジェラルドの短編集、ヘミングウェイの「老人と海」、漱石の「こころ」。駅で買ったミステリー小説はそのまま新幹線の中においてきてしまった。僕は自分でもなぜ夏目漱石の「こころ」をバッグに入れたのかわからなかった。だがそれは旅に持っていかなければいけないような気がした。時として使命感とは複雑な心の中に生じるものである。もっと言えば、僕は「こころ」の呪縛がなにかのきっかけで解かれるのではないかと密かに期待していたのだ。

 結局、短編集と「こころ」をバッグの中に戻し、ときどき腕時計で時間を確認しながらアーネスト・ヘミングウェイの「老人と海」を読んだ。本は過ぎた年月のせいで端が黄ばみ、使い込まれた歯ブラシのようになっていた。この小説は昔からよく頭をからっぽにしたいときだけ好んで読んだ。ヘミングウェイに限っては、僕はそれほど熱心な読み手というわけでもない。けれど彼の作品──特に本作品における著者の情景描写には、抗いがたい自然の力を生身で読み手に伝えるだけの技量が注がれている。それはページを捲るうち、僕にモンゴルの平原で見たあの一時の美しい朝日を思い出させた。


 旅行者の群れがひとかたまり列車から吐き出され、地図の前でしばらくまごついたあと、思い思いの方向に散って行った。母親に手をひかれた少女が、ロートーンの窓越しから店内の白人観光客に向かって手を振った。叔父と再会するときが刻一刻とせまるにつれて、僕の胸は意味もなくはらはらしだした。一時半に勘定を払って店をあとにするまで、そのざわつきはずっと胸の中にあった。

 見る見るうちに気温が上がり、もうシャツを着ている必要はなくなった。駅前で十分近く待っていると、白のバンからピンクのポロ・シャツを着た血色のいい叔父が降りてきた。車体には黒々とした文字で<喫茶・砂時計>と書かれ、その上をアーチ型に<草原の癒し、味わいのひととき>と書かれている。

 叔父は厄介なものでも見るような顔つきで観光客の集団を見やったあと、反対の方角に僕の姿を見つけ出した。表情がすぐと明るくなり、こちらに向かってせかすように手招きをする。僕が歩み寄るあいだに、彼は少し上体をかがめて煙草に火を点した。

 「いよう、久しぶり!」叔父は勢いよく顔を上げると、煙草を左手に持ち替え、僕と握手した。

 「お久しぶりです」

 「ずっとここで待ってたの?」

 「喫茶店にいました。そこの──」と言って僕はその方角に指を差そうと思ったのだが、見慣れない景色のせいで自分の来た方角どっちなのかわからなくなってしまった。「大体そこらへんの店だったと思うんですけど」

 「またまた。ほんとは女の子に声でも掛けてたんじゃないの?」とおどけた様子で彼は言い、煙といっしょに黄ばんだ歯を見せた。

 「まさか」

 「ジョウダン──まあ乗りなよ」彼は長年連れ添った恋人の肩に手をおくような仕草で車に手をかけると、僕に向かって助手席に座るよう顎先で指示した。「話は車の中でしようさ。今日は暑いからね」

 車内には半永久的に消えそうもない強烈な煙草の臭いが染みついていた。それは僕が子供のころから感じていた叔父のにおいとそっくり同じものだった。ドアーズの古いアルバムがかかり、灰皿はラークで一杯になっていた。バックミラーのところにペンギンのかたちをした臭い消しみたいなものがぶら下がっていたが、それほど効果はないらしい。そんな叔父にもかつては禁煙を決意した経緯があった。十七歳のとき少年鑑別所に入れられた一ヶ月と、奥さんが妊娠した四年ほど前のこと。しかし叔父夫婦には今も子供はいない。奥さんがその年の末に子供を流産してしまったからだ。二人が子供をもう作ろうとしていないのかどうかということまでは僕にわからない。

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