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第五章 「新幹線、ミステリー小説、カレーとの奇妙な縁」

 次の太陽が昇るまでに長い夜があった。僕が叔父の家に遊びに行くということを母に切り出してから、思いもよらず僕を議題の中心とした家族会議のようなものに発展してしまったわけだ。「例えば将来のことについて」という名目から始まり、取るに足らない昔話、父親からの受け売りじみた教訓の数々や母の瑣末な心配事、そういった半ば食傷気味のやり取りがあった後でようやく僕は解放された。夕食に出てきたのはやはりただのカレーであり、会議に実のあるところはほとんど見受けられなかったのだけれども。

 正午前、移り変わる窓の景色を眺めながら、僕は今年の夏にいったい自分が何度電車に乗ることになるのだろうかと考えていた。僕は昨夜のうちに荷物をまとめ、朝の十時に家を出て電車を乗り継いで東京駅まで行き、長野行きの新幹線「あさま」に乗った。腕には大学の入学祝いに叔父からもらったオメガ・レイルマスターをはめていた。今までなんとなく身に余るような気がして、入学式以来しかるべきときのため父親の金庫にしまっておいたものをひっぱりだしてきたのだ。

 おそらく向こうに着くのは一時かそこいらになりそうだった。僕はキオスクで手ごろなミステリー小説を買い、移動中はずっと静かにそれを読んでいた。車両はまさに観光シーズン真っ只中ということもあって大いに賑わっていたのだが、幸運にも僕の隣には誰も腰を下ろさなかった。発車して十五分も経つとカートを押した女性がやってきたので、僕は夏野菜のカレーとコカ・コーラを買った。特にカレーを口にしたい気分でもなかったけれど(なにせ昨夜も食べたのだ)、無闇に腹を空かした子供たちが後ろできゃあきゃあ騒ぐのでつい焦って手に取ってしまったわけだ。それに選択の自由を与えられた場合なんかには、僕は習慣で物を選んでしまうケースが多々ある。どうやら今夏はカレーと奇妙な縁にあるようでもあったし。

 小説を半ば読み進めたころに、自分が読書に没頭できていないことに気がついた。僕は義弘のことを考えていた。窓の景色はでこぼこした灰色のビル街から段々と深い緑や平べったい屋根の集落に姿を変え、自分は今なにか意味を持ってどこかに向かっているのだとかすかに息弾ませることができた。僕は後ろの座席に人がいないことを確認してからシートをいっぱいに倒し、ごそごそと体勢を整えながら目をつむって両手を胸の上に置いた。日よけを下ろし、リバティーンズの「タイム・フォー・ヒーローズ」を気に障らない程度の音量で聴いた。そうしてしばらくじっとしていたあとで、ふいに義弘の顔が暗闇の中に浮かんできた。あの夢のようにはっきりと。僕はこれまで義弘の顔をなかなか思い出すことができなかったのだ。顔の特徴は浮かぶのだがどうしても他の箇所が像を結ばなかった。僕は肩耳のイヤホンを指で弾き飛ばし、目を開けてそのイメージをできるだけ長い時間保とうと努めた。でも次の瞬間にはイメージはほころび、最後には手にとることもできないほどぼんやりとした像に変わってしまった。


 高校二年の冬ごろだったと記憶しているが、我々の関係がわずかながら希薄になっていた時期があった。考えてもみれば当然のことだが、その年頃というのはちょっとした啓発のようなものを与えるだけで十年保持した主張をがらりと変えてしまうことのできる年代である。これが大人ならそうはいくまい。ここまで関係を続けることができたのはある意味で奇蹟にも近かったのだな、と僕が感じたのはこのときであり、しかしすんなりと終わってしまうことにもとりたてて寂しさを感じなかった。つまり、かくいう僕自身も十代の好奇心が生み出すからくりにまんまと騙され、自らも機会あらばトリックスター的な役割を担おうとしていたわけである。少なくともその覚悟はあった。

 そのときの状況を整理してみるとこういうことになる。僕はそのころ再燃した執筆熱に駆られ、自分と同じような志しを持つ人間と小説を書いていた。ありていに言えばそれは一時のことだけで、ほどなく熱は冷えてしまったわけだが。梓はと言うと、一年半のあいだで周りとすっかり交友を深め、気心の知れ合う仲間たちに誘われバドミントン部の練習にしばしば顔を出すようになっていた。義弘だけは前々から、僕のよく知らない人たちとよくわからない会話をしていた。

 こうして思い起こしてみると、それぞれがあの幼少期から自立したように見えなくもない。だが実際にはそれぞれの中で食い違いみたいなものが発生し、ひとまず保留するあいだに着々と育っていたわけだ。原因は義弘にあったように思う。あのとき少なからず義弘は僕らをがっかりさせた。人と人とがたとえ真に理解し合うことができないにしても、目に見える不足は補えるはずだという淡い願望を彼は打ちのめしてしまったのだから。

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