第四章 「意外な結末、老人の死、避暑」
それから僕は本日何度目かの前後不覚に陥った。気が朦朧としていたに違いない、自分が居間と台所のあいだに立っていることに気がつくことすら数分を要したのだから。郵便配達のバイクが玄関前に騒々しく停車し、我に返った僕は居間の座布団に腰を下ろした。ほどなくしてテレビを点けてみたのだが、画面で今なにが囁かれているのかまったくわからなかった。僕の意識にあるのは昨夜の夢が残した相変わらずの胸の虚空だけであり、それはどこかの山奥で、瓦礫に出入り口をふさがれながら人知れず時を刻む防空壕を思わせた。そこでは時おり粉塵がぱらぱらと降り注ぎ、一日に数分のあいだだけ一筋の光が、手が届かないとわかりながらもわずかな希望が顔を覗かせるのだ。
テレビを消してしまうと部屋はしんと静まり返った。例の鳥がふたたび鳴き始め、国道の方から聞きなれた間断ないトラックの走行音が轟いた。部屋を閉め切って冷房をつけると、僕は膝を両腕で囲み、体を前後に揺すりながら歌を歌った。眉間をぽりぽりと掻いて顔を上げると、小窓のカーテンに隣家の庭木が影を落としているのが見えた。たぶん僕はその歌を最初から最後まで通して歌うことができるのだが、曲名を思い出すことができなかった。歌はしばしば続きを探し求めるように途切れた。曖昧ながらも最後まで歌いきると、僕は立ち上がってささくれだった電話帳を手にタ行を追った。
竹中勉 026─23×─××××
僕は番号を押した。
「はいもしもし」出たのは上品な口ぶりの女性だった。「竹中ですが」
「もしもし宮野ですけど」
「あら、ノボルさん?」
「いや、ノボルの息子の圭吾です」
「あっ、圭ちゃん?」とびっくりしたように夫人は言った。その声にはほとんど感動すらこめられていた。「声がそっくりだからお父さんかと思っちゃった」
「ハハ、お久しぶりです。──勉叔父さんはご在宅でしょうか」
「ご在宅でしょうか、なんてまあ! ほんとに立派。声が大人びたってことはまた背が伸びたんじゃなあい、違う?」
「もうあんまり伸びません」と僕は苦笑した。
「あらそう。もう二十歳になった? ああ、なってないんだ。──叔父さんに用があるんだっけ。ちょっと待ってね」奥さんは言い、おそらく階段に向かって怒鳴った。「あなた降りてきて。大事な人から電話。──誰って圭ちゃんよう! ほら早く」
そのあとで叔父の返答が電話越しに聞こえた。夫人は僕に誘いかけるようにくすくすと笑った。
「また今度おうちに遊びにきてよ」とおまけのように夫人は言った。
はい近いうちに、と僕は答えた。
「もしもし」と叔父はあわてた様子で夫人と代わった。
「お久しぶりです」
「久しぶりだなあ」まるで僕をその場で目にしているかのような口ぶりだった。「どうだい、あれから学校はうまくいってんの?」
「そうですね──なんとか」
ジッポライターの金属音が二度ばかり耳に響いた。目をつぶって意識を集中すると、広いリビングに立って煙草をくゆらせる叔父の姿が鮮明に浮かび上がってきた。
「東大生だもんな。ハハ、兄貴よりよっぽどしっかりしてらあ」
「はい?」
「しっかりしてるって言ったんだよ。──それでどした、何かあったの?」
「実はどうしても訊きたいことがあって電話したんです」
「いいよ。遠慮せずに何でも訊いてよ」
「本田さんのことなんですけど」と僕は言った。「まだ元気にしてるのかな、と思って」
「ああ……」と神妙な声で叔父はつぶやいた。「本田さんなら今年の初めに心臓発作で亡くなったよ」
僕はしばし受話器を持ったまま押し黙ってしまった。あたかも当然のことように、そんな結末をまったく予期していなかったのだ。
「うん」と事実を裏づけるように叔父は低くうなった。「でもそれほど苦しまずに逝けたらしい。遺骨はうちで引き取った。葬式もやったよ。墓もそんな立派なもんじゃねえが、うちの近所に立ってる。まあ線香をあげにいくのは俺ぐらいのもんだけどね。圭ちゃんにも知らせようとは思ったんだが……時期が時期だろう、なにせ一月だったから」
思いがけない感傷が胸を震わせていた。それからもしばらく黙っていたが、決意を込めて口を開いた。
「僕も線香をあげに行っていいですか?」
「もちろん。もちろんだとも」といつになく厳粛な声で叔父は言った。「本田さんだって圭ちゃんが来てくれたらそりゃあ喜ぶだろうよ。圭ちゃんと会ったあとも本田さんはそのときのことばっかり話してたんだからさ」
「本田さんが、僕のことを?」と確かめるように僕は言った。
「うん。そうだよ。まあ本田さんは何遍説明しても圭ちゃんのことを俺の息子だと勘違いしてたんだがね、『あんたんとこの坊ちゃんはありゃでかいな。あんな男はなかなかおらん』なんて言ってたよ。いや、本当にね」叔父は話を転じるように長く息をついた。「それにひとつ預かってる遺品があるんだ。それは俺が持ってるより圭ちゃんが持ってた方がいいんじゃねえかと思うよ」
「遺品ですか」
「うん。まあでもそれはこっちに来てもらってから話そうか。そうだね。──今夏休みだろう? 金はこっちで都合つけるから、来れるんならおいでよ」
「そんな」と僕はとっさに言った。「そこまでご面倒かけるわけにはいきませんよ」
「なーになに、いいのいいの。たかが電車賃かそこらだ。兄貴の息子にこづかいのひとつふたつ持たせられないようじゃ俺も終わりだよ」
「でもいつもいつもお世話になってますし……」
「だーいじょうぶだから。気持ちよく受け取ってもらえりゃこっちも嬉しいんだ。ハハハ。兄貴のてまえ顔も立たねえしな。あとでお金は上げるから遠慮なくいちばんいい席で贅沢して来な」
僕は深く礼を言った。なるべく恐縮し切らないようにしたかったのだが(なぜなら時として申し訳ないという気持ちが先立つことにより却って他人をがっかりさせてしまうことがある)、これまでの恩恵を考えるとそうもいかなかった。僕のようなせせこましい人間にとってはということだが、叔父の寛大さはいつもありがたいことにはありがたいのだけれど、それに対してどんな代価を支払えばいいのかと常に頭を悩ませてしまうことにもなる。だから叔父にそんな気がなくとも、ついこっちで期待に背くことは許されんのだぞという気になって、へどもどしてしまうのだ。
「ハハハ、何もそんなにかしこまらなくったっていいさ。そんでいつ来れるんだ? 大学の休みったら長いだろう。中だるみしちゃうよな」
「すぐにでも行けます」と熱のこもった調子で僕は言った。「明日にでも明後日にでも」
「うん。圭ちゃんの都合がいい日ならいつでもいいよ。なんたってこっちは気楽な自営業だからね」
電話を切ると僕は長い息をついて台所のシンクを背もたれに床へと座り込んだ。それで不思議と肩の荷が降りたような気になった。口元がほころび、そのあいだ絶え間ない空想が花開いた。老人の死に携わる感傷も、今は高原の魅惑的な風景と取って代わっていた。僕は壁の一点を見つめながら、次のような要を得ないことをもぞもぞとつぶやいた。
着替え……写真……夏休みだから……お金と本に……着替えは……
そんなことをしているうちにふたたび電話が鳴った。僕はまさに飛び上がって受話器を手にしたのだが、それは次の選挙がどうたらこうたらという類の電話だったので、今は頼まれて留守番をしている身だからとか適当な返事をして電話を切ってしまった。相手も無駄とわかってすぐに諦めた。僕は四列に並んだ電話機の番号を見つめながら、いっそ今の気分にまかせて義弘に電話をかけてみてはどうかと考え始めた。久しぶりに遠くの叔父と会話したことで、度胸みたいなものが備わっていたわけだ。でも結局電話はしなかった。居間と階段のあいだをぐずぐずしているうちに元のような逡巡をどこかに感じてしまったから。あるいは理由づけみたいなものとしてそれを待っていたのかもしれないけれど。