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第四章 「夢のあと、現実の証左」

 ベッドから起き上がっても、僕はしばらくそれが夢だとは信じられなかった。夢は普段のそれと比べてあまりにも生々しかった。もちろん現実味のある夢をそう見ないというわけでもない。むしろ奇妙な夢を見ることの方が多いくらいである。けれどそういった夢を見るたびにだが、僕はここがれっきとした現実である証左を、現実のよりどころを追い求めずにはいられなくなる。なぜなら僕はモンゴルの大地の匂いも覚えていたし、自分が踏みしめたみすぼらしい草の感触も覚えていた。膝をかすめた銃弾の痛みも、首だけになった人々の表情も克明に。

 僕はぶるっと身震いした。そしてあたかも薄氷を踏むがごとくおそるおそる部屋を出て(そうしなければ今ある世界はあとかたもなく壊れてしまう)、はやる気持ちで一階に下りた。なによりひとりでいるのが耐えられなかった。

 僕がおぼつかない足取りで階段を下りていると、一階から妹の声が聴こえた。

 「誰? 圭ちゃん?」

 僕は壁に手をつき、熱病やみのような声にならない唸り声を上げた。

 「お兄ちゃん?」妹は一階の戸口から床に手をついて顔をのぞかせた。「何やってるの、そんなところで」

 「ちょっと牛乳取って」

 「具合悪いの? 夏風邪?」

 「お願い。牛乳」

 妹は身軽に立ち上がり、冷蔵庫から紙パックの牛乳を取って僕に手渡した。僕は震える手で底を掴み、口の端にだらだらとこぼしながらも勢いよく牛乳を飲んだ。

 「汚いなあ、もう」

 「今何時?」僕は口の端をぬぐって妹に訊いた。

 「下りて来て自分で見て」

 僕は動悸を抑えられぬまま一階に下りた。炊飯器の時計は八時三十二分を示していた。

 「それちょっとずれてるかも」妹は棚の上に乗った青い目覚まし時計に目をやった。「今はね、九時五分くらい」

 僕は大きく深呼吸をしてテーブルに手をつき、胡坐を掻いて妹の横に座った。

 「昨日何時に帰ってきたの?」と妹は言った。そのとき僕の目は先刻の狂気を宿していたに違いない。妹の声は尻すぼみに小さくなり、語尾が頼りなく響いた。

 「夕方だよ」と僕は言った。「コーヒー沸かして」

 「え?」

 「コーヒーを入れて」

 妹は膝に手をついて立ち上がると皿に載った食べかけのハムエッグを躊躇なくごみ箱に捨て、しばらく僕に背を向けながら無言でカップに粉を注ぎ、水を入れたやかんを火にかけた。それから歌を口ずさむくらいの声量で「コーヒーじゃなくてお湯でしょ、沸かすのは」と言った。その言葉は午後までのあいだしばらく僕の頭の片隅に残っていた。


 二口くらい口をつけてからカップを手に部屋へと戻り、僕はベッドの上でたった今長い旅を終えた人のように放心し切り、それまで目にした光景に深く囚われていた。なんという夢を見たものだろうか。僕は自分の両の手の平を眺めながら、それを閉じたり開いたりしてここが現実であることをふたたび確かめた。小指が引きつったように微かに震え、夢の情景が思い浮かぶとまた鼓動が早まった。僕は両手を顔に押しつけ、こめかみを指の先でぐりぐりと押し、目頭をぎゅっと絞った。それでいくらも気分はよくならなかった。それからも僕は意識をどこか別のところに移すべくなんやかやと試みてはみたものの、やはりそれはどれもうまくいかなかった。たぶんこれから二・三日のあいだ例の夢が頭から離れることはないだろうなという感じが明瞭にあった。おかげで数分に一度ははっと我に返り、ベッドから身を起こさなければならなかった。


 昼前になると妹と父親はどこかに出かけてしまっていた。僕が家を出てから飼い始めたのか、隣家からは聴きなれない鳥の鳴き声が昼のあいだに三度ばかり耳に届いた。種類についはその手の知識がないので皆目見当がつかないが、少なからずどこかで耳にしたことのある鳴き声だった。どこか夏を思わせる鳴き声だ。

 午後になって母が階段を上る音が聴こえると、僕は自分からドアを開けてなんの用か訪ねた。

 「今日はどこか出かけるの? どこも行かないんでしょう」母はちょっと立ち寄っただけだというようなわざとらしい身振りで僕に訊いた。

 「どこにも行かないよ。気分が悪いから」

 「なに、風邪でも引いた?」

 僕は力なく首を振った。

 「髪切りなさいよ。そんなに長くて」

 「うん」と唸るように僕は言った。

 「じゃあちょっと下おりてきて」と母は急にせっかちになって言った。くるりと向きを変え、廊下を進んでいく。「物騒だから鍵かけといて欲しいの。お母さんも出かけちゃうから」

 「どこに?」と僕は顔を上げた。

 「お買い物。──なにか食べたいものある?」

 「じゃあカレーがいい。ナンも買って来て」

 「はいはい」

 「わかるの?」と僕は言った。「ナンだよ?」

 しかし母はもう階段の下に消えてしまっていた。

 「早く下りて来て」とそのあとでくぐもった母の声が聴こえた。「もう本当に出るんだから」

 僕は長く伸びた前髪を手で後ろにひっつめ、素足のまま廊下に出た。他人のものを扱うように片足ずつ慎重に階段を下っていき、母が出たあとで玄関の鍵を閉めた。そのあとしばらく動けずに玄関口で座り込んでいると、退屈で憂鬱な午後が始まったのだという経験的な確信が身をいっそうと気だるく、主に不分明な頭に重く圧し掛かってきた。ためしに一度玄関を開けて首を覗かせてみたのだが、近所のガレージに人影が見え、それがこちらに振り返る仕草を見せるや否や面倒になってとっさにドアを閉めてしまった。その人物は僕の三つか四つ年下の男の子の父親だったと思うが、やけにスキンシップの多い大柄な男で、当時からよく「やあやあ坊ちゃん!」とかそれらしいことを言って分厚い手の平を僕の肩にぴしゃりと叩きつけた。僕はふたたび床に座り、そのあとで有意義に今日を過ごす人々を想って彼らをひどく羨んだ。長らく身を置いた土地というのは、かつてその地にいた人間を強く惹きつけながらも、同時に確固たる期待はずれや堕落といったものを提供してくれる。それでとうとう誰しもが物憂げな気分になってしまうわけだ。

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