第四章 「おぞましい悪夢、モンゴルの平原にて」
母親が二階に上がってくる足音を聞いたとき、僕はとっさに身を起こした。それは長年の習慣がもたらした意味をなさない動作のひとつだった。
「ノック」と僕はあわてて半ば苛立ちながら声を張り上げた。
「開けるよ」、そう言ったと同時に母はドアを開けた。
「ねえどうしてノックしないの」僕は本を乱暴に床に投げ、とげとげしく言い放った。「いつになったら変わるんだよ。その性格」
「だって言ったじゃないのよ。開けるって」
「だから──」僕は言いかけて目をつむり、肩で大きく息をした。「だからね、開けるよって言って開けられちゃ困るんだよ。それじゃ意味がないでしょうが」
「じゃあなにか見られて困るものでもあるんだ」
母は意味ありげに微笑み、僕は相手を鋭く睨みつけた。馬鹿馬鹿しいことに、僕は家に帰ってくるたびこのような陳腐で愚かしく、その上滑稽な図に巻き込まれてしまうのだ。
「息子に恥をかかせて楽しい?」僕は心底から解しがたいというような表情を浮かべて言った。
「で、どうすんの」母はそれ以上取り合わなかった。いつものことだけれど、母となにか議論を交わすたびに、僕は乱立した思想の渦に巻き込まれているような錯覚を覚える。母と僕とは根底からなにかが違うのだ。「図書館には行くの、行かないの」
「行くよ。──なんで焦らせるんだよ。別にまだ時間あるじゃんか」
「あんたが決めないとこっちの予定が狂うの。図書館六時までだよ」
「予定なんかないくせに」と僕は忌々しくつぶやいた。「じゃあ明日行くよ。行くからもう下行って」
「明日は休館日です。ちゃんと調べてから来ないから」
「じゃあもう行かないよ!」
「何それ」と拍子抜けしたように母は言った。「じゃああんた何しに帰ってきたの」
「もう! 要するに一時帰国ってやつだよ」打っちゃるように生返事をして立ち上がり、僕は母を部屋の外に追い出して勢いよくドアを閉めた。「お願いだからゆっくりさせて!」
そのあとも廊下で人の神経を逆撫でさせる母のぶつくさ言う声が聴こえたが、僕は本を床から取り上げてカリカリしながら無言で文字を追った。とても本を読める気分にないことを悟ったあとで目を閉じて短い時間眠った。
その日は結局、家から一歩も出ることなく終わってしまった。六時すぎに妹が帰って来て部屋に顔をのぞかせた。父親は八時すぎに帰って来た。僕は久しぶりに家族と夕食をとり、そのあとすぐにまた部屋に引きこもってかび臭いベッドシーツに頭を押しつけた。しばらくじっと同じ体勢を保ったままで何事かに頭を働かせていたのだが、気づくと僕は部屋の天井をフレスコ画よろしく眺めることに没頭していた。よそよそしい部屋の質感に比べて、天井だけは僕を憂鬱ではあるけれど落ち着いた気分にしてくれた。それというのも、昔にもこういうことがしばしばあったからだ。僕は頭の後ろで手を組み合わせ、視線を移ろわせながらまだらなその模様に意味合いを追い求めた。学校を休んだ日なんかにも、こうしてほぼ一日中しげしげと部屋の天井を眺めていたものである。木目を部屋の端から順々に眺め、それを終えると今度は雨漏りの染みを眺める。そのあいだに染みは蝶のかたちをとり、なにかしら不吉な印象のあるかたちをとり、最後にただの染みへと還って行く……そのような一見無意味と思われる行為も、楽しくはないにせよ多少の退屈を紛らわせてはくれるはずだ。それも今日のような場合においては、染みはいつもどこかしら幻想的に映じたものである。
移ろいで行く微弱な感情の中、本田という老人の顔がふいに浮かび上がってきたことで、僕の意識はふたたび繋がれた。水が悪いのはいかんな、と彼は言った。水が悪い? 今になってさえその言葉の意味はよくわからない次元に存在している。いやに不吉な真実味を帯びて。──無理はいかん、死んだつもりでおればいい。老人の言葉は小さな雨粒となってポツポツと僕の頭骨を叩いていた。やがてなにか大いなるものに包み込まれるような眠りがやって来た。おぞましい悪夢を連れて。
その夜に見た夢を僕は生涯忘れないだろう。
僕はそのときモンゴルの平原に立ち、空を引き裂いていくような日の出を眺めていた。息を吸い込むとそこには手つかずの大地の匂いがあった。僕は圧倒的なまでのそれらの情景に対し、信じられないというように首を振って狂人のような笑みを浮かべていた。これ以上の恍惚とした瞬間をのちの生涯で迎えることはもうないだろうという確信が僕にはあったのだ。それほど素晴らしい眺めだった。もしも今自分が世界の始まりに立ち会っているのだと聞かされたら、僕はそれをそのまま事実として受け入れたであろうと思う。神秘的な何かの力を感じ、奇蹟の存在を盲目的に信じた。手足が計ったように震えだし、僕は戯曲的に膝からくず折れて大地と口づけを交わした。ちょうど「カラマーゾフの兄弟」にしばしば登場する、心から神を信じるものたちのように。やがて震えは増大し、熱を持った激情が目のふちから絶え間なく零れだした。僕はモンゴルの大平原で声を上げながら泣いた。
だが夢はそれだけで終わらなかった。ふいに顔を上げると、蟻のように黒い点がずうっと地平線上に並び、なにかの合図を思わせる乾いた銃声がどこからともなく朗々と大地に響き渡った。そしてどういうわけか点は瞬きもしないあいだにぐっと僕に近寄って来ていた。それは戦車や銃を持ったソビエト兵たちだった。見るやいなや僕の理性は凍りつき、次の瞬間にはバラバラに砕けて白い錯乱の中に落ちていった。銃弾が僕の膝をかすめたとき、本能が僕を動かした。僕は身を翻しつつあわてて立ち上がり、彼らとは反対に向かって全速力で駆け出した。走って走って走り続けるあいだも爆撃が鼓膜を震わせ、ひいては大地を震わせた。肺が破裂してしまいそうになりながらも、一度も振り返ることはしなかった。やがて銃声は聞こえなくなり、地鳴りのような戦車のキャタピラの音もなくなった。僕は岩陰に手をついて倒れ込み、恐怖からしばらくそこで喘ぐように泣いた。しかし次に顔を上げたとき、そこにあった光景はおよそ信じられないものだった。岩の上には僕の大切な人たち全てがそこに並んでいた。父、妹、母、叔父、義弘、梓──彼らは全員が目を見開いて僕を見つめていた。そしてそれらは例外なく全て生首だった。僕は息をつけなかった。彼らの目に段々と軽蔑の色が浮かび、それがはっきりと表情にあらわれるのが見て取れた。僕は裏切ったのだ。自分の命と引き換えに、大切な人々を全て犠牲にしたのだ。しばらくのあいだ一枚の写真のように時間が止まり、そのあいだも首はじっと僕を見つめていた。それは夢の中で永遠にも思える長い時間だった。