表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/27

第四章 「帰省、ホーム、消えたヒグラシの声」

 電車が蘇我駅に着いたとき、僕はしばらく手に持った「こころ」の背表紙を眺めたままじっと動くことができなかった。あのとき義弘は何を考えてサッカー部を辞めたのだろう? それが安易で単純な決断でないことはもはや明らかだった。彼は何かに区切りをつけようとしたに違いない。そしてそれは義弘だけの問題ではなかった。彼は小学校からずっとサッカーを続けてきたのだ。それを切り捨てるということはつまり、ひとつの重大な決断に対して犠牲を払うという意味合いがあった。原因はおそらく梓に──そしてこの僕に──関連することだろう。そしてそれは概ね僕のせいかもしれないということ。

 僕はあのときどうするべきだったのか、という考えがふいに浮かび上がってきた。あのとき義弘は何を求めていたのだろう? 必要なのは励ましてやることだったのか、悩みを聞いてやることだったのか、長い時間ただ一緒にいてやるべきだったのか。ひとつわかるのは、あのときの僕にはなにかしらの行動が求められていたということだった。少なくとも陰鬱な病室に二週間置き去りにすることが誰かのためになるとは思えない。時に深みのないまごころとは人を決定的に傷つけ、根底から人生観を変えてしまうほどのものだと思うからだ。天才的な能力を持つ人間がどれだけのことを考え、どれだけの苦悩にさらされているかなんてことは僕には想像もつかないことだ。そのころの僕にとってだが、「類稀なる才能」とは雲の上を闊歩し、俗界を遠く離れた地で神々と交信しているような人物のことだった。けれどあのとき病室のベッドに力なく横たわっていた野方義弘は、少なくともあの瞬間、僕と同じ十六歳の少年だった。


 清掃員が隣の車両からわざとらしく物音をさせて入ってきたところで、僕は電車を降りて内房線のホームに移った。駅は人で混雑し始め、車両の中吊り広告が順に新しいものと交換されていった。僕は電車を待っているあいだキヨスクで冷たい缶コーヒーと菓子パンを買い、ベンチに座って人の流れを眺めながらそれらを飲み下した。電車は二十一分に到着したが、僕はベンチから腰を上げることができなかった。人がぞろぞろと乗り込み、駅が閑散とした後でタバコを一本吸った。昼の光のせいでろくにライターの火も見えない。すでに額には汗が滲みかけていた。煙草を地面に捨てて靴底で入念に火種を消し、三十六分にもういちど電車が到着したとき、ヒグラシの声はどこからも聴こえてこなかった。


 実家に着いたのは五時だった。気が滅入るころになってようやく昼の暑さは一段落を迎え、時おりだが人の心を騒がせる夏特有の夕風が襟を踊らせた。家の中からは掃除機をかけている大きな音が漏れ、その後ろから意味をなすかなさないかくらいの声量でキャスターが新しいニュースを読み上げていた。二度目のチャイムで掃除機の音は止み、母がどたばたと玄関のドアを開けた。部屋の中は外に比べると穴蔵みたいに薄暗かった。

 「ああ、ちょうどよかった。おかえり」

 「ただいま」と僕は言った。

 「あのね、掃除してたら今図書カード出てきたの、ちょうどよく。──すぐ行く?」

 「ちょっと待ってよ」と僕は言い、所狭い玄関を母をよけて家に入った。

 「最近どう?」と母親は僕の背中に言った。「みんなにはついていけてるの?」

 「今は夏休みだよ」

 「夏休みったってあんた。もう大学生なんだから──」

 靴を脱いで湿った靴下を途中どこかに放り投げ、僕は階段を上がって自分の部屋に入った。下からすぐと母の呼び声が聞こえたが、僕は気づかないふりをした。

 何ヶ月かぶりに見る自分の部屋は昔よりもずっと殺風景だった。物欲に関して言えば僕はかつてからほとんど世捨て人のそれと変わらない生活を送っていた。と言うのは、要するにその手のどんな若かりし啓発もなされなかったということである。そのせいか部屋はたった今誰か別の人間がこの場所をあとにしたように見えた。そして帰ってくるたびに、自分が昔ここで生活していたんだという実感が薄れていく。しかしきっと過去とはそういう眺め方しかできないものなのだろう。そうして人は少しずつなにかを得て変わり、あるいは失っていくのだから。

 僕は鞄を勉強机に置き、ベッドの弾力をはかりつつ何度か大きく息をついた。壁は以前ポスターの貼ってあった箇所だけがやけに白く、他は大抵のものが埃にまみれていた。床にも何か物が置いてあったのかところどころが埃から四角く開けている。

 それから僕は日程についてぼんやりと考えた──何日居座ることになるだろうか、と。三日か、それとも一週間か。しかし架空の日程は部屋の宙をとりとめなくふわふわとしばらく浮いていたあとで、ほどなくふいに消えた。大学の休みはおそろしく長いが、それは学生を堕落させるためのものではない、という言葉が耳の奥で執拗に語られていた。よろしい、と彼らは言う。君は休みを与えられたからといってその日々を無駄に過ごすのだね? こちらとしてはそれでいっこうにかまわない。けれど世界は確実に進行していくのだよ、君だけが置いてけぼりだ。

 かまうものか、と僕はつぶやいた。それから大きなあくびをして立ち上がり、棚に並んだ本を適当に手に取って、寝転がりながら気まぐれにページを捲くって夕暮れまで読み進めた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ