第三章 「病院、泥棒かかさぎの序曲」
次の日の午後四時に、僕らは電車に乗って義弘のいる隣町の病院に向かった。
梓は移動中難しい顔をしながら、ときおりそれらしい仮説を思いついたときにだけぱっとこちらに顔を向け、早口に唱えだした。「恥ずかしかったんじゃないかな? いちいち見舞いに来てもらうほどの怪我じゃないって」、「親に止められたのかもね。友達が来ると勉強の邪魔になるからとかなんとか言われて」。彼女は不安に晒されていた。これらのすがるような仮説も、明らかに自らの疑惑を打ち消すためのものだった。彼女の最大の恐怖はおそらく、義弘が怪我によって大きな精神的ダメージを負ったのではないか、ということだった。僕は彼女の心に課せられた負荷を思って体よく相槌をうち、時にはそれらしいことをぺらぺらと喋って事態を束の間小事へと運んだ。しかしこれらの気休めは矛盾を通して僕を苦しめ、いつものように消耗させていった。そのころにはもう安易に偽善を受け入れられるほど僕の精神は若くはなかったのだ。
僕には義弘の秘密ごとについていくつか思い当たる点があった。でもそのことを梓に告げたりはもちろんしなかった。
病院に着くころになると辺りが夕暮れに侵され始めていた。小径がしめやかに影を背負い、道を抜けると家々の窓が一様にぎらぎらと赤く燃えているのが見えた。一日経って風はなりをひそめ、今はこそこそと枯葉に息を吹きかけるに留まっている。それは十二月半ばごろだった。病院は東大のそれとは比べ物にならないほど陰気くさく、特色というものを欠いているせいか僕の目には不気味に映じた。それは梓も同じだったらしく、我々は入り口の前で一度止まり、口を微かに開いたまま顔を見合わせた。おかげでこれからなんだかいわくつきの建物に足を踏み入れるみたいな雰囲気になってしまった。
「ここだよね?」と彼女は平静を装って言った。でも左眉だけが不器用に釣り上がっていた。
僕は肯いて中に入り、緑色したスリッパを下駄箱から二足分つまんだ。漠然とした胸騒ぎが始まり、スリッパを床に置いた直後、手の震えを梓に隠し切れなかった。
「大丈夫?」という風に彼女は口を動かした。
「大丈夫だよ」と僕はなんでもない風を装って、ちゃんと声に出して答えた。
どうしてこんな病院に入院しなくてはなからなかったのかという疑問が根強くに二人の頭に残っていた。口に出せないことで、いっそうその疑惑の念は強まった。こんなところは誰だって見つけられない。
僕らは無人の待ちうけにちらちらと視線を投げながら、五分くらい長椅子に腰掛けていた。ときどきどこかのドアがばたんと音を立ててしまったが、看護婦はいっこうに現れなかった。たまりかねた梓が待ちうけの丸窓に向かって身を乗り出し、呼び声をしてみたのだが、奥から反応がないことを見て取ると、こちらに向かって憤然と首を振った。僕もそのあとで同じようにしてみた。けれど結果はいっしょだった。丸窓の奥には書類だか薬だかが渾然として棚に収まっているだけだった。
「なんなの、ここ」と彼女は不機嫌に言った。
「さあ。ひょっとして休診──」長椅子に戻り、そこまで言いかけたところである重大な事実の予感に気づいた。果たしてもういちど入り口に戻って診察時間を確認すると、とうから自分たちが間違っていたことに気づいた。
「もう終わりなんだ」僕はガラスドアに向かって確信的にそうつぶやいた。それから待合室に振り返る。「もう終わりだよ。診察は終わってるんだ」
彼女は半端な角度に首をかしげながら、今しがた彼女の頭の上を通り過ぎたものを目で追っていた。それから首を回して辺りを眺める。
「どうしよう」と僕は絶望的につぶやいた。「まだ四時なのになんで──」
「行こう」彼女は早口にささやき、あわてて立ち上がって僕の腕を取った。「今行っちゃおう。どうせ誰もいないんだし」
「え?」
「早く。今しかないから」
僕は数秒のあいだ躊躇した。とは言え、決心したころにはすでに引き返せない状況にいたわけだが。
階段を上りかけた拍子に、それを待ち受けていたかのような人声が耳元をかすめたが、梓も僕もそれを完全に無視した。病院は廊下が狭く、まばらに配された白い光だけが神経質な印象を院内全体に投げかけていた。途中で白衣を着たよく顔の見えない男がそばをさっと通り過ぎたが、彼はロッシーニの「泥棒かささぎ」の序曲を口笛で吹くことに陶酔しており、不審な足音には見向きもしなかった。あとになって、彼とおぼしき人物が一階に軽快な靴音を鳴らして下りていくのが廊下に響いた。
「でも本当にいる?」と僕はささやいた。
「いるとは思うけど」と彼女も自信なさげに答えた。
「何号室だって?」
「ニイマルサン」と彼女は答えた。
二〇三号室に入ったとき、夕陽の照り返しが強くて僕はその方角に手をかざした。手を下ろしたとき、病室の誰かがこちらに振り向くのがわかった。彼は意味深に目を細めていた。ホラー映画やなんかでよく見かける、犯人の謎に気づいた人物が殺される寸前と同じ顔だ。もしも今が夜中だったり、あるいは暗い森や墓場だったとしたら、彼の脳天に振り下ろされる斧の鈍い光を実際に見たことだろう。
隣で梓が大きく息を吸い込むすうっという音が聴こえた。でもその思念は言葉としては出てこないようだった。僕が振り向くと、彼女は嘘みたいに綺麗に泣いていた。
「どうして……」梓は聞き取れないほどの声でつぶやいた。
「ごめん」義弘は動転していたが、いつかのように声だけは確かだった。
僕は義弘の名をつぶやいた。でもそれに対しては誰も気を留めなかった。
「すごく心配したんだよ、わかる?」と梓は言った。
「ごめん」
それから運び手のないまま悲劇めいた雰囲気がしばらく続いた。一分間が一時間にも思えるほどの煮詰まった沈黙だった。二人は長いあいだ見つめ合っていた。
「ねえとにかく二人とも──」僕は耐え切れなくなって言った。
「どうして知らせてくれなかったの!」彼女の中の自制心が破綻し、調子はずれのヴァイオリンを思わせる耳をつんざくような叫び声となって今まさに天井を貫ぬかんとしていた。「どうして! これだけ心配させて……何があったの? もうわたし……」
彼女は言い切るか言い切らないかのうちにくずおれ、涙がぽたぽたと病室の床に滴った。僕は彼女に手を差し伸べたのだが首を振られ、その途端になにか凄まじい力で胸を締めつけられたような感じがした。僕は身を引いて彼女を見下げ、それから義弘に振り向いた。
「ごめん」と先ほどより力のない声で彼は言った。目の前にある光景に深くとらわれている様子だった。
僕はため息をついたが、肺がぶるぶると震えていた。彼女の涙を目にしたことでこれ以上ないほどに動揺していたのだ。
「いいよ。それで容態は? 足を折ったって聞いたけど」
「足は大したことないよ」すかさず彼は答えた。「でもただ……」
義弘はそこで言いよどんだ。僕はふたたび梓に手を差し伸べた。
「ただ色々とあって……整理のつかないことが……」
「さあ立って。向こうに座ろう……そう、こっちに」
梓はすでに自制心を取り戻しかけていた。立ち上がると目のふちに溜まった涙を指先で拭き取り、僕に手を引かれてよちよち歩きながら、まるで疲れきった子供のようにベッドのそばの三脚椅子に腰を下ろした。
「歩こうと思えば歩けるの?」
「まあ少しなら。痛みはあるけど」
「じゃあどこも怪我はしてないの?」と梓は顔を上げた。その表情はふたたび泣き出しそうに見えた。
「怪我をしてなかったら病院には入れないよ。部活で膝をやった。剥離骨折」
「なに、それは」
「人によってまちまちだけど、要するに激しい運動をすることで──」
梓が説明をさえぎるように何度か続けざまに肯き、それで義弘も今そんなものが必要とされてはいないということに気がついた。
「どのくらい入院が必要なの?」と僕は訊いてみた。
「ほとんど必要ない。というか、本当は入院しなくてもよかったんだ。でもたださっき言ったとおり色々と……」
「まだ何も聞いてない」と梓が小さな声でつぶやいた。
「たぶん一週間もすれば退院するよ。本当にちょっとのあいだのことで」
「どうしてもっと近くの病院にしなかったの?」梓の口ぶりは涙を通り越し、半ば尋問のようになっていた。「それにここ信用できるの? こんなところ……」
彼女は病室を見渡す途中でなにかを思い出したらしく、顔をゆがめて込み上げる涙を押しとどめた。僕はなにか新しい話題を切り出そうとしたのだが、その前に小さな咳をしたことで沈黙を助長する結果に至ってしまった。
「色々考えたいことがあって」としつこく義弘は言った。「それで落ち着ける場所にしようと思った。だから誰にもこの場所は教えてないよ。聞いた人がいたとしたらたぶんうちの親が言った。ごめん。別に二人から逃げようとかそんなつもりじゃなかったんだよ」
「そう」と梓は寂しげにつぶやいた。それからゆっくりと視線を部屋の隅々に移したが、もう何も見えてはいない様子だった。
帰りの電車の中でほとんど僕らは言葉を交わさなかった。梓はずっと下を向いていたし、僕は流れる夕闇の街並みを眺めていた。我々の気持ちはこののち一時、三人が三人共ばらばらになっていた。そしてその二週間後、退院した義弘はサッカー部を辞めた。理由について僕は知らない。