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第三章 「リビドー、卒業式での一幕、不穏な報せ」

 その後、のちのち神格化されるのではないかというほどの成績で二人は中学を卒業し、関東でも有数の進学校に危ぶまれることなく入学した。そしてこの僕もぎりぎりなんとか(とは言え彼らのように授業料なんやかやを免除してもらえたりは当然しないのだが)晴れやかな気分で新しい季節を迎えることができていた。梓も義弘もスポーツ先進校(特に義弘は船橋にある高校のスカウトから執拗な勧誘にあっていた)からかなりの待遇を用意されていたけれど、結局は二人が二人とも学問の道を、つまりは確実な将来性をとることとなった。そうして我々は小学校から続く関係を高校生活にまで持ち込むことになったのである。

 卒業式でのことだが、その日義弘は彼女に自分の気持ちを告げようとしていたに違いない。そわそわと落ち着かない様子で彼女の肩口をじっと眺め、時おり手を伸ばそうと試みたためか体をぴくりと震わせた。けれど彼女は部の下級生にずっと囲まれていたし、ただでさえ別れの感慨にふける彼女に愛を告げるのは場違いではないにせよ、慎みを欠いた行為に思えた。彼自身も何人かの後輩たちに囲まれていたのだが、ほとんど上の空だった。義弘の体が空いたとき、僕はそっと寄って行って声を掛けた。

 「今はやめた方がいいんじゃないかな」と僕は言った。言葉以上の意味があったわけではなく、ただ単にそういう雰囲気だったからだ。

 義弘は僕に半分だけ振り向き、頭の中で僕の言葉を繰り返し再生しながら、そこに含まれた意味合いを追い続けていた。やがて彼の目玉の中でなにかがめまぐるしく動いた。

 「ヨシ?」

 「うん」と彼は事のほかたしかな声で言った。「今はやめておく」

 彼はもはや核心に近づきつつあった。長らくリビドーの影を追い、今ようやく原点に立ち返ろうとしていた。

 それは僕にしかわからない動物的な勘に他ならない。生ある我々は時として、それを精神感応テレパシーと呼ぶ。口に出さないのはただそれが野暮というだけのことだ。僕にはなぜ彼女への告白が憚られるのかよくわかった。義弘は無意識のうちに知を得ていたのだ。あるいは反対に、無意識のうちに知から目を背けていた──そう、真実から。そして背反の挙句、凍結した彼の心の歯車を動かしたのは高校二年の冬だった。

 

 僕はそのとき実家の自分の部屋で暖房をつけながらゆっくりと本を読んでいた。すぐ近くで花火がしゅるしゅると昇っていくような風の音が聴こえ、僕はベッドの上で何度か体勢を変えた。そのとき僕を夢中にさせていたのがどんな本だったのかについては思い出せない。おそらくはゲーテのファウストだったかと思うのだが、こいつは近来棚の奥に眠ったままずいぶんと姿を見せていない。そのうち一階から聴こえる雑音の高低が母の怒鳴り声だということに気づき、のろくさ部屋を這い出ると、階段の下で電話の子機を手に持ち迷惑そうな顔を浮かべる父の細君が登場した。

 「あんたさっきから呼んでるのになにやってるの。ほら梓ちゃんから電話」

 僕は母の一方的な剣幕に対して色々と反論できたが、梓を待たせてしまいそうだったので、いくぶんカリカリしながら受話器を引ったくり、大げさな足音を立てて二階に上がった。

 「もしもし」と僕はもごもご言った。

 「寝てたの?」

 「寝てない。起きてたよ。──でもちょっとね」

 「何?」

 階段を上がったところで部屋に戻るのが急に億劫になり、僕は長く息をついて額に手をあて、廊下の途中で壁を背にしてへたり込んでしまった。廊下はとても静かだったし、電話の先も物音ひとつしなかった。そのためかまるで壁の向こう側に梓がいるような錯覚が起こった。いやに落ち着いた彼女の声のせいもあったかもしれない。

 「風邪を引いてるかも」と僕は言い、鼻をすすった。実際それは適当な文句に他ならなかったのだが、不思議にも額にあてた手は熱を感知していた。「……やばい。本当に風邪かも」

 「ねえ」と張り詰めた声で梓は言った。まるで僕の風邪うんぬんの話と対比して、改めて自分の中にあった疑惑の重大さに気づいたかのように。「ヨシが怪我したの聞いた?」

 「怪我? 怪我ってどんな。ちっとも聞いてないよ」

 「そっか」

 それからしばらく、彼女は何か考えを巡らせているようだった。

 「怪我ってどのくらいの──」

 「あ、ちょっと待って。後で掛けなおしていい? すぐだから」

 わかった、とひとまず僕は言った。それから三分後に電話が掛けなおってくるまでのあいだ、ずっと廊下の照明を見上げていた。

 「お待たせ」と彼女は素っ気無く言った。「ねえどうしてだと思う?」

 「何について?」

 「あ、ごめん違う」彼女は僕に焦点を戻そうと、何事かを聞き取れない声でつぶやいた。「──ヨシはね、部活で足を折ったんだって。わたし今日サッカー部のマネージャーからそれを聞いたの。だからそんなのおかしくないかってこと」

 「おかしいね」と僕は同意した。「足を折った?」

 「うん」

 「足を折った──足を折った?」と僕はもう二度ばかりそう繰り返した。その事実の重みを改めて計り知ることで動転し、ほとんど滑稽に至っていた。「でもどのくらい──なんていうか、すぐ治るものなのかな」

 「わからない。ねえいったい何だと思う? 何でわたしらに言わなかったんだと思う?」

 彼女が「ねえ」という言葉を使うたびに、その焦りがひどく伝わってきた。僕は「ちょっと待って」と早口に告げ、機敏な動作で立ち上がり、部屋に入って鍵を閉めた。

 「さあ。何か複雑な事情があったんじゃないかな」と僕は言った。

 「わからない。そんなの全然……」

 「訊いてみることはできないの?」

 「もちろんできるけど、今日はもう無理でしょ。とりあえず明日行ってみるから、できればついてきてくれない?」

 そのとき彼女の義弘を語る口調がどこかよそよそしかったわけに気づいた。

 「えっ、もしかして入院してるの!」

 「みたい。だから明日のお昼ごろにまた電話する。起きててね」

 電話が終わると、ちょうど下から催促の声が聴こえた。今度は途切れ途切れに、はっきりと。──すぐ使うから早く、電話を、持ってきてちょうだい。

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