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第一章 「夏、レポート、デ・キリコ」

この小説は「ねじまき鳥クロニクル」のオマージュとして過去に書かれたものです。そのため一部引用がありますが、物語の関連性はほとんどありません。

再投稿の発案元は文学ジャンルを盛り上げようという企画趣旨によるものです。

 気の早いヒグラシがしつこく鳴いていた。夏の正午だった。

 僕は学校に向かうための準備をはじめ、キャンパスノートと筆箱をいちどは鞄の中に入れたのだが、思いなおして棚をあさり、高校時代の社会科ノートを取り出した。今日中に満州を巡る第二次世界大戦中のロシアと日本の関係をレポートで提出しなければならなかったのだ。ノートはひどく埃にまみれていた。僕はそれをゴミ箱の前に屈んではたき、改めて鞄の中にしまった。

 だが玄関までいったところで何かにふと気がついた。部屋を出ようと半分振り返ったとき、何かが瞼の裏に焼きついていた。ちょうどその残像が消えかけるときにふと僕の意識がそれを掴んだのだ。そいつは僕の脳みそを蹴飛ばし、呼びかけていた。おい、起きろ、俺はここにいてずっとお前を待ってるんだぞ。僕はそれから十秒間くらい部屋の虚空を眺めて佇んでいた。過去と現実の焦点を合わせるのにひどく時間がかかってしまったのだ。おかげで傍から見るとまるで今しがた夢から覚めた人のように見えたことだろう。

 思い当たったところで鞄を肩から下ろして玄関に置き、ふたたび僕は部屋に戻った。そのあとで糸で手繰られるがごとく棚に歩み寄ると、視線の先に並んでいたのは夏目漱石の「こころ」だった。僕はそれを自分の部屋の本棚の中で見つけたことに少しのあいだ戸惑った。どうして漱石の「こころ」が僕のアパートの本棚にあるのかわからなかった。しかし呆然と立ち尽くしてそれを見ていると、草原をたなびく夏風のように色んなものがまざまざと脳裏に蘇ってきた。頭の周りでぐるぐると飛んでいた目に見えない小さな羽虫を随分かかって捕まえたような気分だった。僕はずっと昔、まだ子供のころにこの本を借りたのだ。

 僕は本を手にとり、それをしばらくじっと眺めたあとで埃を払って鞄の中にしまった。


 外に出てアパートの階段を降りていると、ヒグラシの声はぐっと現実味を帯びて僕に近づいてきた。夏らしい夏の日だった。僕は梓に電話をかけ、今から行くと伝えた。

 「ほんとに遅い」と彼女は苛立たしげに言った。「結局レポートは提出できるの?」

 「大丈夫だよ」と僕は笑った。場に合わないぎこちなさのせいで、我ながらひどく調子はずれな笑い方になってしまった。「高校時代にたまたま同じ題で書いたレポートがあったから」

 「それを提出する気なの?」

 「うん」と咳き込みながら僕は言った。「だってそれしかない」

 「大丈夫? 高校ってもう何年も前のことでしょ」

 「平気だよ。下手したらあの頃の方が今よりずっと勉強してたんだから」

 それは本当に本当のことだった。何年か前に比べれば、今の僕はずっと楽な生き方をしている。

 「うんまあわかった。じゃあとりあえず急いで」


 僕はそれから東急田園都市線に乗り、緑一色に染まった街並みを電車の窓からしばらく眺めていた。夏鳥が走り出した電車と同じ速度で連れ立って飛び、僕が目を離した拍子にどこかへ向きを転じてしまった。途中に通り過ぎた踏み切りでは赤い風船を持った親子連れが何かを熱心に話し、また次の踏み切りではサッカーボールを脇に抱えた少年が自身の着ているTシャツの襟を掴んでぱたぱたと胸元に風を送り込んでいた。そんな風景を目にすることで、僕にもようやく夏の到来を身に感じることができた。僕は季節を体に馴染ませるのに時間のかかる方なのだ。しかしそれは僕だけではないだろうとも思う。三軒茶屋に着いたころだが、額に汗にじませた人々がホームからぞろぞろと乗り込んでくる際に、何人もの憂鬱なため息を同時に耳にしたからだ。

 渋谷に着いたのは十二時四十五分ごろだった。僕は京王井の頭線に乗り換え、さっきと同じように周囲の観察を続けていた。窮屈な車両に座した人々は、視界に霞がかかっているみたいにみんな一様に目を細め、波打つ電線を心電図の波形よろしく眺めたり、正面に座る女の子の脚に一瞥を配したりしていた。特に普段と変わりはないが、夏だけはその情景に何かしら心を強く惹きつける、ある種の興奮を孕んでいるように思う。あるいはその含みに対して我々は興奮を覚えるのかもしれないが。ともかくも夏は不思議な魔力を持っているんだろう、と僕は思った。例えばデ・キリコの絵が示すように。

 けれど実際のところ元気にはしゃぎ回っているのは夏休みという一時的楽園を迎えた子供たちだけだった。憧憬とやらを年々失いかけつつある大人にとっては、暑さなんてものは人をかりかりさせるだけの厄介なものにしかならない。分別を失わせ、知を枯渇させ、場合によってはだが心底人生にうんざりさせられる、ということにもなりかねない。──誰かをげんなりさせたいわけではなく、ただそういう季節でもあるということだ。


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