第1話 異世界の便所地獄
俺──森下恭平。日本では「トイレット社」という会社で、トイレの設計や改良を担当していた。便器の形状、流れる水の効率、ウォシュレットの水圧や温度まで、ほとんど全部覚えている。世間的には、ちょっとしたトイレオタクだと思う。
周りからは、『Dr.トイレット』と呼ばれていたくらいだ。
そんな俺が、ある日、会社の試作トイレで事故に遭った。
──いや、正確には、試作品の水流調整装置を操作中に、排水管が破裂して水を浴び、頭を打った。気が付くと、見知らぬ場所に立っていた。
「……え、ここ、どこだ……?」
目の前に広がる街並みは、まるで昔のヨーロッパを思わせる。石畳の道、木造建物、街灯はまばらで、夜にはぼんやりしたオレンジの光がともる。馬車や荷車が行き交い、人々はのんびり歩いている。景色は美しい。でも、どこか妙に空気が重い。俺の頭の中に、警告が鳴った。
「……トイレ……どこだ?」
角を曲がると、小屋のような建物があった。扉も目隠しもない。恐る恐る中を覗くと、衝撃の光景が広がった。床には穴が空いているだけで、便座も水も紙もない。清潔を保つ仕組みなど、まるで存在しない。
「うわ……これは……」
俺の知識が次々作動する。水洗、洋式、紙、ウォシュレット……全部ない。日本の昭和初期の田舎、あるいは昔のヨーロッパの街角のようだ。胸が締め付けられる。こんな環境で生活するなんて耐えられない。
そのとき、前方から少女が駆けてきた。
18才くらいだろうか。スカートを揺らし、腰までの髪をなびかせる。美少女だが、あまり胸はない。でも、彼女の仕草でわかった――焦っている。排泄を我慢しているか、生理で不便を感じているのか。
正面からぶつかった。
「あっ……す、すみません!」
「……どうした?」
「トイレ……我慢できなくて!」
彼女は小屋に駆け込み、慌ててショーツを床におろし、スカートをめくり上げる。目の前でおしっこの音が響く。
──この世界では羞恥心はないのか? 丸見えでも平然としている。男女兼用なのか? そもそも男女でトイレを分けているのか? 考えている余裕はない。
しばらくして、彼女は小屋から出てきた。顔色は平然としている。
「……焦ってて、ごめんなさいね。トイレって、いつも行きたい時には近くにないからさ……」
彼女は小さく息を整えながら言葉を続ける。
「その辺の茂みにしゃがんでシャーってする人もいるけど、あたしは少し抵抗があって……おしっことか、生理の時もちょっと不便なんだよね……」
「──分かった、俺がなんとかしよう」
思わず口に出た言葉。自然と出た。心の奥では、守りたい気持ちが溢れていた。
「え?」
「手伝ってくれるか?」
「──なにを?」
「トイレを使いやすくするんだ」
「わ、分かった……!」
「俺は森下恭平だ」
「あたしはリナ」
その手を握った瞬間、胸がじんわり熱くなる。俺は決めた――ここで、少しでも快適な生活を作ると。
「この世界でも、日本の常識に近い衛生環境を作ってやる」
そして、俺の胸の中で確かな決意が固まった。
「よし……やるぞ、異世界トイレ改革だ!」
――俺の新しい物語が、今、ここから始まった。




