第4話「共同炊事場」
ベルゴの工房を出る頃には、空が茜色に染まっていた。
グライムが西日を受けて、岩盤の縁が金色に光っている。影が長く伸び、街全体が夕暮れの色に沈んでいく。
ゼンは長屋への道を急ぐ。下町の路地を抜け、石畳を踏む。どこかで子どもが泣いている。井戸端で洗濯物を叩く音。窓から漏れる明かり。
長屋の入口をくぐると、中庭から煙が立ち上っていた。
共同炊事場。
竈に火がついている。大鍋がかけられ、湯気が立ち上る。野菜と肉の匂い。香辛料の香り。
リザ婆さんが鍋をかき混ぜている。大きな木杓子を持ち、ゆっくりと。他にも老婆が二人。獣人の老婆と、只人の老婆。三人で何かを話している。
「おや、おかえり、ゼン」
リザ婆さんが気づいて声をかける。
「ただいま戻りました」
「お腹空いたろう?もうすぐできるよ」
「手伝います」
「そうかい。じゃあ、井戸から水を汲んでおくれ」
ゼンは桶を持ち、井戸へ向かう。
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ポンプを押し下げる。魔導回路が光る。水が吐き出される。
冷たい水。桶に溜まる。
もう一度押す。また溜まる。
重い桶を持ち上げ、炊事場へ運ぶ。
「ありがとうね」
リザ婆さんが桶を受け取る。
「他にありますか?」
「そいじゃあ、パンを切ってくれるかね」
作業台の上に、大きなパンの塊がある。硬そうだ。
ゼンは包丁を手に取る。パンを切る。力を入れる。ざくり、と刃が入る。
一切れ、また一切れ。
「上手になったねえ」
獣人の老婆が切られたパンを覗き見て笑う。犬の耳を持つ老婆で、名前はマルタ。
「最初の頃は、ぼろぼろになってたのにね」
只人の老婆、アイネも頷く。
ゼンは黙々と切り続ける。
老婆たちが話している。
「ベルゴんとこで頑張ってるんだってね」
「ああ。真面目な子だよ」
「ベルゴも昔はあんな感じだったねえ」
「そうそう。朝から晩まで鍛冶場にいてね」
「今のゼンと同じくらいの歳だった」
三人が笑い合う。
ゼンは手を動かしながら聞いている。
ベルゴの昔。知らない話。
でも、聞いていると、何かが見えてくる。
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パンを切り終える。
作業台に並べる。
「ありがとうね。手を洗っておいで」
ゼンは井戸へ向かう。
手を洗う。顔も洗う。冷たい水。煤が落ちる。
手拭いで拭く。
中庭を見渡す。
人が集まり始めている。
トーマ爺さんが杖をついて歩いてくる。鉱人の老人も、獣人の中年女性も。只人の若い工場労働者も。
ヨハンの姿はない。まだダンジョンに潜っているのだろう。
明後日には戻ると言っていた。
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炊事場に戻ると、椀が並べられていた。
リザ婆さんが汁をよそっている。
「ゼン、椀を配ってくれるかい?」
「はい」
ゼンは椀を手に取る。一つ、また一つ。
住人たちに配る。
「ありがとう」
「お疲れさん」
声をかけられる。
全ての椀を配り終え、最後に自分の椀を受け取る。
「いただきます」
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炊事場の周りに、人が座る。
地面に、木の箱に、石に。
椀を持ち、パンを齧る。
ゼンは少し離れた場所に座る。中庭の端。井戸の影。
一口、汁を飲む。
温かい。野菜が柔らかく、肉の味が染み出ている。
周りで会話が弾む。
そんな中でマルタ婆さんが匙を置いて口を開いた。
「最近、マーケットに見ない顔が増えたねえ」
「ああ、ちょっと身なりと雰囲気が違う連中だな」
トーマ爺さんが頷く。
「只人ばっかりなんだけど、」
アイネ婆さんが眉をひそめる。
「わたしらを見る目が、なんていうかね……」
「ああ、嫌な感じだな」
リザ婆さんが首を振る。
「実は今朝、店に落書きがあったんだ」
獣人の老人が髭を撫でる。
「落書き?」
「ああ。『ケモノ』ってな」
場が一気に静かになった。
ゼンは椀を持ったまま、耳を澄ます。
ケモノ。
獣人を侮辱する言葉。
「なんだかねぇ」
マルタ婆さんが耳を寝かせる。
「ああ、」
トーマ爺さんが酒を飲んで応えた。
「でも、ここはオルタナだ」
「そうさね」
リザ婆さんが鍋をかき混ぜて言う。
「これまでも、これからも、ってところかね」
「婆さん、あんたあと何十年生きるつもりかね」
一斉に笑い声が起きた。
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夜が深まる。
人が減っていく。部屋に戻る者、仕事に出る者。
炊事場の火が小さくなる。
ゼンは冷たい井戸の水で椀を洗い、終えると棚に戻した。
「ゼン」
リザ婆さんが呼ぶ。
「はい」
「ちょっと座りな」
リザ婆さんが竈の前に座る。ゼンも隣に座る。
火が小さく燃えている。薪が爆ぜる音。
「今日の話、怖かったかい?」
「……少し」
「そうだろうねえ」
リザ婆さんが火を見つめる。
「でもね、あたしらがいるからさ」
リザ婆さんが手を伸ばし、ゼンの頭を撫でる。
「お前は、あたしらの子だからね」
ゼンは俯く。
リザ婆さんが立ち上がる。
「さあ、もう遅い。寝な」
「はい」
「おやすみ、ゼン」
「おやすみなさい」
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部屋に戻る。
窓から空を見上げる。
月が出ている。星が瞬いている。グライムが月明かりに照らされている。
ゼンは床に座る。
首にかけた小刀を握る。鞘から抜く。
刃が光る。鈍い光。
ベルゴが鍛えた刃。ヨハンが持ち帰った素材。
そして、今日聞いた話。
かつてのベルゴ、長屋の人々の温かさ、街の変化、嫌がらせ、そして。
「ケモノ」
その言葉が、胸に引っかかる。
ゼンは刃を鞘に収める。
床に横になって目を閉じる。
リザ婆さんの言葉を思い出す。
「あたしらがいるからさ」
その言葉は、温かい。
ゼンは小刀を握りしめる。
眠りが、ゆっくりと訪れる。




