表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

第4話「共同炊事場」

ベルゴの工房を出る頃には、空が茜色に染まっていた。


グライムが西日を受けて、岩盤の縁が金色に光っている。影が長く伸び、街全体が夕暮れの色に沈んでいく。


ゼンは長屋への道を急ぐ。下町の路地を抜け、石畳を踏む。どこかで子どもが泣いている。井戸端で洗濯物を叩く音。窓から漏れる明かり。


長屋の入口をくぐると、中庭から煙が立ち上っていた。


共同炊事場。


竈に火がついている。大鍋がかけられ、湯気が立ち上る。野菜と肉の匂い。香辛料の香り。


リザ婆さんが鍋をかき混ぜている。大きな木杓子を持ち、ゆっくりと。他にも老婆が二人。獣人の老婆と、只人の老婆。三人で何かを話している。


「おや、おかえり、ゼン」


リザ婆さんが気づいて声をかける。


「ただいま戻りました」


「お腹空いたろう?もうすぐできるよ」


「手伝います」


「そうかい。じゃあ、井戸から水を汲んでおくれ」


ゼンは桶を持ち、井戸へ向かう。


---


ポンプを押し下げる。魔導回路が光る。水が吐き出される。


冷たい水。桶に溜まる。


もう一度押す。また溜まる。


重い桶を持ち上げ、炊事場へ運ぶ。


「ありがとうね」


リザ婆さんが桶を受け取る。


「他にありますか?」


「そいじゃあ、パンを切ってくれるかね」


作業台の上に、大きなパンの塊がある。硬そうだ。


ゼンは包丁を手に取る。パンを切る。力を入れる。ざくり、と刃が入る。


一切れ、また一切れ。


「上手になったねえ」


獣人の老婆が切られたパンを覗き見て笑う。犬の耳を持つ老婆で、名前はマルタ。


「最初の頃は、ぼろぼろになってたのにね」


只人の老婆、アイネも頷く。


ゼンは黙々と切り続ける。


老婆たちが話している。


「ベルゴんとこで頑張ってるんだってね」


「ああ。真面目な子だよ」


「ベルゴも昔はあんな感じだったねえ」


「そうそう。朝から晩まで鍛冶場にいてね」


「今のゼンと同じくらいの歳だった」


三人が笑い合う。


ゼンは手を動かしながら聞いている。


ベルゴの昔。知らない話。


でも、聞いていると、何かが見えてくる。


---


パンを切り終える。


作業台に並べる。


「ありがとうね。手を洗っておいで」


ゼンは井戸へ向かう。


手を洗う。顔も洗う。冷たい水。煤が落ちる。


手拭いで拭く。


中庭を見渡す。


人が集まり始めている。


トーマ爺さんが杖をついて歩いてくる。鉱人の老人も、獣人の中年女性も。只人の若い工場労働者も。


ヨハンの姿はない。まだダンジョンに潜っているのだろう。


明後日には戻ると言っていた。


---


炊事場に戻ると、椀が並べられていた。


リザ婆さんが汁をよそっている。


「ゼン、椀を配ってくれるかい?」


「はい」


ゼンは椀を手に取る。一つ、また一つ。


住人たちに配る。


「ありがとう」


「お疲れさん」


声をかけられる。


全ての椀を配り終え、最後に自分の椀を受け取る。


「いただきます」


---


炊事場の周りに、人が座る。


地面に、木の箱に、石に。


椀を持ち、パンを齧る。


ゼンは少し離れた場所に座る。中庭の端。井戸の影。


一口、汁を飲む。


温かい。野菜が柔らかく、肉の味が染み出ている。


周りで会話が弾む。


そんな中でマルタ婆さんが匙を置いて口を開いた。


「最近、マーケットに見ない顔が増えたねえ」


「ああ、ちょっと身なりと雰囲気が違う連中だな」


トーマ爺さんが頷く。


「只人ばっかりなんだけど、」


アイネ婆さんが眉をひそめる。


「わたしらを見る目が、なんていうかね……」


「ああ、嫌な感じだな」


リザ婆さんが首を振る。


「実は今朝、店に落書きがあったんだ」


獣人の老人が髭を撫でる。


「落書き?」


「ああ。『ケモノ』ってな」


場が一気に静かになった。


ゼンは椀を持ったまま、耳を澄ます。


ケモノ。


獣人を侮辱する言葉。


「なんだかねぇ」


マルタ婆さんが耳を寝かせる。


「ああ、」


トーマ爺さんが酒を飲んで応えた。


「でも、ここはオルタナだ」


「そうさね」


リザ婆さんが鍋をかき混ぜて言う。


「これまでも、これからも、ってところかね」


「婆さん、あんたあと何十年生きるつもりかね」


一斉に笑い声が起きた。


---


夜が深まる。


人が減っていく。部屋に戻る者、仕事に出る者。


炊事場の火が小さくなる。


ゼンは冷たい井戸の水で椀を洗い、終えると棚に戻した。


「ゼン」


リザ婆さんが呼ぶ。


「はい」


「ちょっと座りな」


リザ婆さんが竈の前に座る。ゼンも隣に座る。


火が小さく燃えている。薪が爆ぜる音。


「今日の話、怖かったかい?」


「……少し」


「そうだろうねえ」


リザ婆さんが火を見つめる。


「でもね、あたしらがいるからさ」


リザ婆さんが手を伸ばし、ゼンの頭を撫でる。


「お前は、あたしらの子だからね」


ゼンは俯く。


リザ婆さんが立ち上がる。


「さあ、もう遅い。寝な」


「はい」


「おやすみ、ゼン」


「おやすみなさい」


---


部屋に戻る。


窓から空を見上げる。


月が出ている。星が瞬いている。グライムが月明かりに照らされている。


ゼンは床に座る。


首にかけた小刀を握る。鞘から抜く。


刃が光る。鈍い光。


ベルゴが鍛えた刃。ヨハンが持ち帰った素材。


そして、今日聞いた話。


かつてのベルゴ、長屋の人々の温かさ、街の変化、嫌がらせ、そして。


「ケモノ」


その言葉が、胸に引っかかる。


ゼンは刃を鞘に収める。


床に横になって目を閉じる。


リザ婆さんの言葉を思い出す。


「あたしらがいるからさ」


その言葉は、温かい。


ゼンは小刀を握りしめる。


眠りが、ゆっくりと訪れる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ