閑話01「白猫の一日」
夜明け前、長屋の中庭で白い猫が目を覚ました。
空にはまだ星が残り、月が西の空に沈みかけている。霜が降りた地面が冷たい。猫は体を丸め、尻尾で鼻を覆う。それでも冷気は忍び込んでくる。
耳を動かす。遠くで犬が吠える声。風が板壁を揺らす音。井戸のポンプが軋む音。
匂いを嗅ぐ。湿った石、冷えた土、竈の灰、誰かが昨夜食べたものの残り香。
腹が鳴った。
猫は起き上がり、伸びをする。前足、後ろ足、背中を反らす。木の柱に爪を立てて研ぐ。
空が白み始める。東の空がオレンジ色に染まっていく。
---
中庭を横切る。
井戸の縁を歩く。石が冷たい。足の裏に霜の感触がある。
炊事場の竈にはまだ火がついていない。灰の匂いだけが漂っている。
誰かが扉を開ける音がした。
猫は足を止め、耳を立てる。
人間。男。若い。
黒い髪。長い木の棒を持っている。
長屋でよく見る顔だ。いつも朝早く、中庭で棍を振っている。
少年が中庭に出てくる。猫を見る。目が合う。
猫は動かない。少年も動かない。
しばらく見つめ合う。
少年が小さく息を吐く。白い靄が口から出る。
猫は尻尾を一度揺らした。
少年が棍を構える。目を閉じる。
振る。止める。戻す。
猫にはそれが何なのか分からない。ただ、音は聞こえる。棍が空気を裂く音。足が地面を蹴る音。呼吸の音。
規則正しい音。
猫は飽きて、別の場所へ移動した。
---
炊事場の隅。
そこにはいつも木の皿が置いてある。古く、縁が欠けた皿。
その上に、時々何かが乗っている。肉の欠片、パンの耳、時々魚の切れ端。
今日は何もなかった。
猫は耳を寝かせた。
匂いを嗅ぐ。昨日の食べ物の匂いがかすかに残っている。
舌で皿を舐める。何もない。
諦めて、猫は長屋の外へ出た。
---
路地。石畳が濡れている。夜露か、それとも誰かが水を撒いたのか。
猫は屋根に跳び移った。
高い場所から街が見える。
下町の古い建物。煙突から煙が立ち上り始めている。朝の支度が始まったのだろう。
もっと遠くには商業区画。高い建物。ガラス窓が朝日を反射して光っている。
もっと、もっと遠く。
白い塔。ダンジョン。
猫はそれが何なのか知らない。
耳を寝かせ、尻尾を低くする。塔から目を逸らした。
---
屋根を跳び移る。一つ、また一つ。
風が吹き、毛が逆立つ。
匂いが運ばれてくる。パン。焼きたて。
腹が鳴った。
猫は匂いを辿る。屋根を降り、路地に入る。
パン屋。窓から湯気が立ち上り、甘い匂いが漂っている。
扉の前に座り、尻尾を体に巻きつける。
待つ。
---
扉が開いた。
丸い体つきの男。鉱人で、背が低い。
よく見る顔だ。いつもパンの耳をくれる。
「なんだ、また来たのか」
男の声は低く、優しい。
猫は短く鳴いた。
「腹減ってんのか」
男が笑って店の奥に入る。
また出てきた。手に何かを持っている。
「ほら」
地面にパンの耳が置かれる。まだ温かい。
猫は近づき、匂いを嗅ぐ。
齧る。温かく、柔らかい。少し焦げている。
美味い。
「ゆっくり食えよ」
男が頭を撫でる。大きく、ごつごつした手。
猫は食べ続ける。
男が店に戻る。
猫は食べ終えると、前足で顔を洗った。耳も拭う。
満足した。
---
日が高くなる。
屋根の上、日向。
猫は体を伸ばして横になる。
眠い。
目を閉じると、音が聞こえてくる。
人の声。足音。荷車の軋み。金属を叩く音が遠くから響く。
風が吹き、煙の匂い、鉄の匂いが漂う。工房街の方角だ。
猫は目を開け、屋根の端まで歩く。
下を見る。
人間たちが歩いている。男、女、子ども。只人、獣人、鉱人。
猫にとって、どれも同じだ。人間。
---
昼下がり、マーケット。
人が溢れ、声が飛び交っている。
猫は路地裏を歩く。
ゴミの山。腐った野菜、廃材、壊れた道具。
そして、子どもがいた。
小さく、痩せている。ゴミを漁っている。
獣人。狼の耳と尻尾を持つ少女。
時々見かける顔だ。
少女がゴミの中から何かを取り出す。パンの欠片。硬く、カビが生えている。
それでも、少女は布で丁寧に包む。大事そうに。
猫は少し離れた場所から見ている。
少女が振り返った。目が合う。
少女の目は鋭く、警戒している。
猫は動かない。少女も動かない。
「悪いけどこれはあげられないんだ」
少女は耳触りのいいハスキーな声をしていた。
猫は近づき、少女の匂いを嗅いだ。
少女を見上げる。
少女が少しだけ笑った。
「ごめんね」
少女が立ち上がって去っていく。
猫はその背中を見送った。
---
午後の陽射しの中、工房街の屋根。
槌の音が響いている。ガン、ガン、ガン。規則正しい音。
煙突から黒い煙が立ち上る。熱い空気。
猫は屋根の影に座った。
窓が開いている。中が見える。
小柄な男。鉱人。白い髭。
よく見る顔だ。
それと、少年。黒い髪。
朝、棍を振っていた少年だ。
少年が何かを研いでいる。小さな刃物と砥石。
シャッ、シャッ、シャッ。
規則的な音。
男が何か言う。声は聞こえない。
少年が頷く。
また研ぐ。
猫には理解できない。何をしているのか。
でも、少年の顔は真剣だ。
猫は飽きて、眠った。
---
夕暮れ。
空がオレンジ色に染まっている。
猫は目を覚まし、伸びをする。
腹が鳴った。
長屋へ戻る。屋根を跳び移り、影が長く伸びる。
路地を抜ける。
長屋の中庭。炊事場から煙が立ち上っている。
匂い。肉、野菜、香辛料。
人が集まっている。老人たち、中年の男女。鍋を囲んでいる。
猫は中庭の端を歩いた。
誰かが気づく。
「あら、シロ」
老婆。小柄な鉱人。
いつもこの猫に餌をくれる。
「お腹空いたかい?」
老婆が笑って炊事場に入る。
また出てきた。手に木の皿。その上に魚の切れ端。
地面に置く。
「ほら」
猫は近づき、匂いを嗅ぐ。魚だ。
「ゆっくり食べな」
老婆が頭を撫でる。小さく、温かい手。
猫はあっという間に食べてしまう。
周りで人間たちが話している。声、笑い声。
猫には言葉の意味は分からない。
でも、この場所は温かい。
---
夜。
中庭。火が消え、人はいない。
月が出ている。
空に、何かが浮かんでいる。大きな岩。その上に崩れた建物。
猫にはそれが何なのか分からない。なぜ浮いているのかも。
ただ見上げる。
月の光を受けて、岩が白く光っている。
風が吹く。冷たい。
猫は体を丸める。炊事場の隅。竈の近く。まだ少し温かい。
尻尾で鼻を覆う。
目を閉じる。
耳を動かす。遠くで犬が吠える。風が板壁を揺らす。井戸のポンプが軋む。
静かだ。
眠い。
明日も、また朝が来る。
また、街を歩く。
それだけだ。




