第2話「帰還」
朝、ゼンが棍の型を繰り返していると、長屋の入口から足音が聞こえた。
重い足音。規則正しく、迷いがない。歩幅が広い。ゼンは動きを止め、振り返る。
逆光の中に、大きな影が立っていた。
「ヨハン」
ゼンの声が、自分でも驚くほど明るく響いた。
影が一歩前に出る。灰色の髭を蓄えた男が、微笑んでいた。ヨハンだ。濃い髭が口元を覆い、髪は頭の中央だけを残して剃り上げている。古い時代の戦士を思わせる佇まいだ。
「稽古か。偉いな」
ヨハンの声は低く、落ち着いている。その声を聞くと、ゼンの中で何かが緩む。肩から力が抜ける。握っていた棍を、少しだけ緩く持ち直す。
「おかえりなさい」
「ただいま」
ヨハンは背負っていた大きな荷物を下ろす。布に包まれた何かが、重そうに地面に置かれる。どすん、という鈍い音。革袋から、金属が擦れ合う音がする。魔石か、それとも武器の類か。
「怪我は?」
「ない。今回は浅い層だけだ」
ゼンは息を吐く。気づかないうちに、息を止めていた。
ヨハンがゼンの頭に手を置く。大きな手。ごつごつとした、働き者の手。
「心配かけたな」
ゼンは首を横に振る。
「嘘をつくな。顔に出てる」
ゼンは俯く。ヨハンが低く笑う。
「少し休んだら、また稽古を見てやる」
顔を上げる。
「本当ですか?」
「ああ。お前の型、また崩れてるだろう」
ゼンは何も言えない。図星だった。ヨハンがいない間、トーマ爺さんに時々見てもらっているが、やはりヨハンの指導とは違う。自己流の癖が、知らず知らずのうちに混ざり込む。
ヨハンが荷物を担ぎ直す。部屋へ向かう背中を、ゼンは見送る。
広い背中。古い傷跡が、服の上からでも分かる。
ゼンは棍を握り直す。また、型を始める。
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ヨハンが戻ると、長屋の空気が変わる。
中庭に人が集まり始める。リザ婆さんが「おかえり、ヨハン」と声をかけ、トーマ爺さんが杖をつきながら歩いてくる。他の住人たちも顔を出す。鉱人の老人、獣人の中年女性、只人の若い工場労働者。
ヨハンは荷物から布包みを取り出し、開く。中には魔石や、ダンジョンで採取した素材が入っている。光る苔、不思議な形をした鉱石。それぞれが微かに光を放ち、魔力の残滓を纏っている。
「今回はこれくらいだ。よかったら持っていってくれ」
リザ婆さんが光る苔を手に取る。緑色の光が、皺の刻まれた手を照らす。
「これ、薬にしようかね」
「ああ、前に婆さんから教わってたからな。また見つけたんで持って帰った」
トーマ爺さんが魔石を眺める。灰色で、表面に細かい傷がある。
「こりゃ何の魔石だい?」
「さあ。急いでたんでちゃんと見なかったよ。火起こしくらいなら使えそうじゃないか?」
「そりゃありがたい。もらっていくよ」
ヨハンは黙って頷く。分け与える。誰がどれだけ受け取るか、細かく数えたりはしない。必要な者が、必要なだけ持っていく。それが長屋のやり方だ。
ゼンは少し離れた場所から見ている。中庭の端、井戸の影。ヨハンの周りに人が集まる様子。笑顔。感謝の言葉。温かい空気。
手を、そっと握る。
ヨハンが視線を向ける。「ゼン、こっちに来い」
呼ばれて、ゼンは近づく。一歩、また一歩。人の輪に入る。少しだけ、肩が緊張する。
ヨハンが別の布包みから何かを取り出す。白く、鋭い牙。長さは手のひらほど。根元に血の跡が残っている。魔物の牙だ。
「これ、ベルゴに渡してくれ。あいつなら売り物に変えられるかもしれん」
「ありがとうございます」
牙を受け取る。冷たく、硬い。表面は滑らかで、光を反射する。重い。命の重さが、そこにある。
「落とすなよ」
「はい」
ヨハンが頭を撫でる。ゼンは目を閉じる。大きな手の温かさ。
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昼過ぎ、ゼンはベルゴの工房に向かった。
道すがら、街が動いている。パン屋の前に行列ができ、井戸端で洗濯物が叩かれ、子どもたちが路地を駆け回る。工房区画に入ると、金属を叩く音が重なり合い、空気が震える。
ベルゴの工房の扉を開ける。熱気が顔を打つ。
「ベルゴさん」
「来たか」
ベルゴが作業台で何かを削っていた。細かい作業。魔導具の部品だろうか。小さな刃物を動かし、金属の粉が散る。
「ヨハンが戻りました」
「そうか」
ベルゴは手を止めず、作業を続ける。しかし、口元が微かに緩んでいる。片目の濁った眼が、少しだけ細められる。
「これ、ヨハンから。加工できるかもしれないって」
魔物の牙を差し出す。ベルゴが受け取り、光にかざして眺める。白い牙に、工房の炉の光が反射する。
指で表面を撫でる。硬度を確かめるように、爪で軽く叩く。刃先で削ってみる。微かに粉が落ちる。
「魔物の牙か。これなら、いろいろ使える」
「何に使うんですか?」
「まだ決めてない。削ってみて、硬度を見てからだ」
ベルゴは牙を作業台に置き、ゼンを見る。
「ヨハンは元気だったか?」
「はい。怪我もないそうです」
「そうか」
ベルゴが笑う。珍しいことだ。ベルゴが笑うのは、ヨハンのことを聞いた時くらいだ。白髪混じりの長い髭が揺れる。
「今日は早く上がっていい」
「え?」
「ヨハンと稽古するんだろう。行け」
「でも——」
「いいから行け。仕事は明日やればいい」
ゼンは頭を下げる。
「ありがとうございます」
「礼はいらん。早く行け」
ベルゴは再び作業に戻る。小さな刃物が金属を削る音。規則正しく、正確に。
ゼンは工房を出る。扉を閉める前、振り返る。
ベルゴの背中。小柄だが、がっしりとしている。炉の光に照らされて、影が揺れる。
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長屋に戻ると、ヨハンが中庭で横になっていた。
木陰。地面に外套を敷き、その上に寝転がっている。腕を枕にして、目を閉じている。
ゼンは足音を立てないように近づく。
ヨハンの顔。髭に覆われているが、疲れが見える。目の下に隈。額に刻まれた皺。
ダンジョンは、体と精神を削る。
ゼンはそっと離れる。部屋に戻り、棍を手に取る。中庭の反対側、炊事場の近くで型を始める。音を立てないように。ヨハンを起こさないように。
振る。止める。戻す。
足音を殺し、呼吸を整え、棍を静かに動かす。
型を繰り返す。
どれくらい経ったか。
「起きてたのか」
ヨハンの声。
振り返ると、ヨハンが立っていた。外套を肩にかけ、髭を撫でている。
「すみません、起こしましたか」
「いや。よく眠れた」
ヨハンが伸びをする。骨が鳴る。
「型を見せてみろ」
「でも、休んで——」
「いいから」
ゼンは構える。足を開き、腰を落とし、棍を握る。深呼吸。胸が膨らみ、縮む。型を始める。
一、二、三。振る、止める、戻す。
ヨハンは黙って見ている。灰色の目が、ゼンの動きを追う。
型を終える。息が上がる。汗が背中を伝う。
「腰が高い」
ヨハンの声が落ちる。
「もう一度」
ゼンはもう一度構える。今度は腰をより深く落とす。足が震える。太ももに力が入る。
「そうだ。その高さを保て」
型を始める。腰を落としたまま動く。足に力が入る。棍が重く感じる。握る手に汗が滲む。
「止まるな。動き続けろ」
振る。止める。戻す。足が悲鳴を上げる。膝が笑う。
「まだだ」
汗が額を伝う。呼吸が乱れる。肺が焼ける。
「もう少しだ」
視界が滲む。棍を握る手が震える。
「よし、止まれ」
ゼンは棍を下ろし、その場にしゃがみ込む。足が笑っている。立てない。
ヨハンが水筒を差し出す。「飲め」
水を飲む。冷たい。喉を潤す。肺に空気が戻る。
「お前、トーマの爺さんに見てもらってるだろう」
「はい」
「悪いことじゃない。だが、お前は真面目すぎる」
ゼンは水筒を持ったまま、ヨハンを見上げる。
「型を守ろうとしすぎて、体が硬くなってる」
ヨハンはゼンの肩に手を置く。ぽん、と叩く。
「型は大事だ。だが、型に囚われすぎるな。体を信じろ」
「体を……」
「ああ。お前の体は、もう型を覚えてる。頭で考えるな。体に任せろ」
ゼンは頷く。意味は完全には分からない。それでも、ヨハンの言葉は胸に残る。重く、温かく。
「もう一度やるか?」
「はい」
「よし。今度は目を閉じてやってみろ」
「目を?」
「ああ。型は体が覚えてる。目で確認する必要はない」
ゼンは構える。深呼吸。目を閉じる。
暗闇。
自分の呼吸だけが聞こえる。心臓の鼓動。足の裏に地面の感触。手の中の棍の重さ。風が頬を撫でる。
「始めろ」
振る。
暗闇の中、体が動く。型を思い出す。次の動き。足の運び。腰の高さ。
止める。戻す。また振る。
不思議と、動ける。目を開けている時よりも、体が軽い。呼吸が整う。筋肉が滑らかに動く。
「そうだ。それでいい」
ヨハンの声が、遠くから聞こえる。
型を終える。目を開ける。
ヨハンが微笑んでいた。
「いい顔だ」
ゼンは首を傾げる。
「お前、今、考えてなかっただろう。ただ、動いてた」
ゼンは頷く。確かに、何も考えていなかった。ただ、体が動いていた。暗闇の中で、棍が、足が、腰が、勝手に動いた。
「それが大事だ」
ヨハンは自分の剣を手に取る。鞘から抜く。刃が光る。
「使い方を間違えるな」
ゼンは棍を握り直す。
ヨハンは灰色の目でゼンを見る。その目には、何か深いものがある。遠い場所を見ているような。それとも、遠い過去を見ているような。
「力は、使い方次第だ」
ヨハンは剣を構える。
「守るためにも、壊すためにも使える」
ゼンは何も言えない。ただ、棍を握る。
ヨハンは剣を鞘に収める。
「お前は、どう使う?」
問いかけ。
ゼンは答えられない。口を開くが、言葉が出ない。
ヨハンは頭を撫でる。大きな手。
「まだ答えなくていい」
そっと、力を抜く。
「いつか、選ぶ時が来る」
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夜、共同炊事場に人が集まった。
ヨハンが戻った日は、いつもより賑やかになる。リザ婆さんが大鍋で煮込み料理を作り、湯気が立ち上る。野菜と肉の匂い。香辛料の香り。トーマ爺さんが酒を持ってくる。瓶を揺らすと、中で液体が音を立てる。ベルゴも工房から戻ってきた。煤で汚れた作業着を脱ぎ、手を洗っている。
「よう、ヨハン」
「ベルゴ」
「くたばってなかったか」
「お前もな」
二人は笑い合う。まだ付き合いは長くない。ヨハンがゼンと共にこの長屋に来てから、一年ほどだ。それでも、二人が並ぶと、長年の知己のように見える。言葉は少ないが、互いを理解している。そんな空気がある。
炊事場の周りに住人たちが座る。鉱人、獣人、只人。老人も、中年も、若者も。地面に、木の箱に、石に腰を下ろす。椀に煮込み料理が盛られる。リザ婆さんが大きな木杓子ですくい、一人一人に配る。パンが回される。まだ温かい。
ゼンも椀を受け取る。両手で持つ。湯気が顔に当たる。温かい。
「いただきます」
一口食べる。味が染みている。野菜が柔らかく、肉がほろほろと崩れる。
周りで会話が弾む。
「ヨハン、今回はどこまで潜ったんだい?」
「五層までだ」
「五層か。浅いな」
「ああ。深く潜る仕事は受けてない」
「それにしては長かったな。途中で寝てたのか?」
ヨハンは酒を飲む。ベルゴも飲む。二人とも、ゆっくりと。味わうように。
トーマ爺さんが「わしも昔は潜ったもんだがな」と話し始める。杖を地面に立てかけ、酒を飲みながら。
「あの頃は若かった。十層でも平気で潜った」
「で、足を失ったんだろう?」
「まあな」
トーマ爺さんが悪びれずに笑う。白い髭が揺れる。
「だが後悔はしてない。あの頃があったから、今がある」
笑い声が起こる。
ゼンは黙って聞いている。椀を持ったまま。少し離れた場所。人の輪の端。
リザ婆さんがゼンの椀におかわりをよそう。
「たくさん食べな。大きくなるんだから」
ゼンは椀を受け取る。両手で、しっかりと。
「ありがとうございます」
リザ婆さんが笑う。手を伸ばし、ゼンの頭を撫でる。小さな手。皺が刻まれた、温かい手。
ゼンは少し俯く。椀を見つめる。湯気が立ち上る。
一口、また一口。
温かい。
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夜更け、炊事場の火が消え、人々が部屋に戻っていく。
ヨハンとベルゴだけが残り、酒を飲み続けている。
ゼンも部屋に戻ろうとすると、ベルゴが呼び止めた。
「はい?」
ゼンがベルゴの傍の地面に腰を下ろす。冷たい。ベルゴが懐をごそごそとまさぐって何かを取り出した。
「お前にはまだ早いかもだがな」
そう言ってゼンの手の平に何かを乗せた。革の紐に繋がった赤黒くて小さなものがあった。
「これは?」
ゼンが尋ねた。
「まあ、小刀だな」
ヨハンが酒を飲む。ベルゴも飲む。
ゼンが握る赤黒い鞘から抜くと小さな刃が剥き出しになった。
「こりゃあの魔物の牙か?」
ヨハンが酔った声でそう聞いた。
「あの大きさだからな。まあこんなもんだ」
ゼンがヨハンを見ている。貰っていいものか迷っているのだろう。
「ベルゴが鍛えてくれたんだ。取っておけばいい」
ベルゴも鼻を鳴らして続けた。
「おお、取っとけ、取っとけ。大したもんじゃねぇ」
「ありがとう」
ゼンは絞るようにそう言った。目は刃の鈍い光に奪われ、それを断ち切るように再度鞘に押し込めた。
月明かりが中庭を照らす。グライムが夜空に浮かんでいる。月の光を受けて、ぼんやりと輝いている。崩れかけた城の輪郭が、闇の中に浮かび上がる。
ゼンは膝を抱える。少し、体を小さくする。
ヨハンが横目でゼンを見る。何も言わない。ただ、もう一杯酒を飲む。
ベルゴが煙草に火をつける。魔石の小さな炎で。煙が立ち上る。甘い香り。
「寒くないか」
ヨハンが訊く。
「大丈夫です」
「そうか」
ヨハンが外套を脱ぐ。ゼンの肩にかける。重い。ヨハンの体温が残っている。
「明後日、また出る」
ゼンの手が、膝の上で握られる。
「……はい」
「すぐ戻る」
ゼンは頷く。外套の中で、体を少し丸める。
ヨハンが頭を撫でる。大きな手。ごつごつとした手。温かい。
「寝ろ。明日も早いだろう」
「はい」
ゼンは立ち上がる。外套を返そうとすると、ヨハンが手を振る。
「持っていけ。部屋まで羽織っていけ」
「ありがとうございます」
ゼンは外套を羽織り、部屋へ向かう。大きすぎて、裾が地面を引きずる。
背中に、ヨハンとベルゴの視線を感じる。
部屋に入る前、振り返る。
二人は酒を飲み続けている。何か話しているようだが、声は聞こえない。ベルゴが笑い、ヨハンが肩を叩く。
ゼンは扉を閉める。
外套を畳む。ヨハンの匂いがする。酒と、汗と、火と、鉄の匂い。
ゼンはそれを抱きしめる。
胸の奥が、少しだけ温かい。
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翌朝、ゼンは夜明け前に目を覚ました。
窓の外はまだ暗い。板壁の隙間から冷気が忍び込む。
中庭に出る。
ヨハンの姿はない。部屋で眠っているのだろう。
ゼンは一人、棍を手に取る。
型を始める。
振る。止める。戻す。
目を閉じる。
暗闇の中、体が動く。
型を繰り返す。
空が白み始める。東の空がオレンジ色に染まる。
ゼンは型を終え、目を開ける。
空を見上げる。
グライムが、まだ浮かんでいる。朝日に照らされて、岩盤が金色に光る。




