第1話「夜明け前」
空が白み始める前、ゼンは目を覚ました。
板壁の隙間から冷気が忍び込む。薄い毛布を引き寄せても、体の芯まで届いた冷たさは消えない。息が白く、指先が痺れている。起き上がると、床板が軋んだ。隣の部屋から微かないびきが聞こえる。長屋の住人たちはまだ眠っている。
狭い部屋の隅に置いた棍を手に取る。魔獣の骨を削り出したもので、表面には細かな傷が無数に刻まれている。手に馴染む重さ。ヨハンが「お前の体格に合わせた」と言って渡してくれたものだ。
戸を開けると、外はまだ暗い。中庭に出る。共同の井戸が中央にあり、その周りに竈と洗い場が並ぶ。夜の名残が地面に這いつくばり、空との境界が曖昧に溶けている。
息を吐く。白い靄が口から零れ、すぐに消える。
足を肩幅に開く。棍を両手で握る。ヨハンに教わった型を思い出す。腰を落とす。足の裏に地面の冷たさが伝わる。体重を前に移す。棍を振る。空気を裂く音。止める。戻す。また振る。
動きに意識を集中させる。呼吸。筋肉の収縮。骨の軋み。それだけを考える。他のことは考えない。どこから来たのか。なぜここにいるのか。自分が何者なのか。そんなことは考えない。
ただ、棍を振る。
型を繰り返す。一つ、二つ、三つ。汗が額に滲む。息が荒くなる。体が温まる。それでも、心の奥底にある冷たさは消えない。
ここは自分の居場所ではない。
その感覚だけが、いつも残る。
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空が薄紅色に染まる頃、炊事場から煙が立ち上り始めた。
ゼンは棍を部屋に戻し、井戸へ向かう。手押しポンプに手をかける。柄を押し下げると、魔導回路が微かに光る。水が吐き出され、桶に溜まる。手を浸す。冷たい。顔を洗う。水滴が顎から滴り落ち、地面に染み込む。
「早いねえ、ゼン」
振り返ると、リザ婆さんが竈の前に立っていた。小柄な鉱人で、白髪混じりの髪を後ろで束ねている。いつも笑っているような顔だが、今朝は少し眠そうだ。
「おはようございます」
「おはよう。今日も稽古かい?」
「はい」
「偉いねえ。あたしなんか、この歳になると朝起きるだけで精一杯だよ」
リザ婆さんは竈に薪をくべ、火をつける。魔石を使えば簡単なのだろうが、彼女は薪を好む。「火は生きてる」とよく言う。
煙が立ち上る。薪が爆ぜる音。火の匂い。
ゼンは手拭いで顔を拭き、「手伝いましょうか」と声をかける。
「いいよいいよ。お前さんは仕事があるだろう?ベルゴのところに行きな」
「まだ時間があります」
「そうかい。じゃあ、水を汲んでおくれ」
ゼンは桶を持ち、再び井戸へ向かう。ポンプを何度も押し下げる。水が溜まる。重い桶を竈の横に運ぶ。リザ婆さんが「ありがとうね」と言う。
空が明るくなる。オレンジ色の光が中庭を染める。長屋の板壁が温かく見える。錯覚だとゼンは知っている。板壁は冷たく、隙間だらけで、冬の風を通す。
それでも、朝の光は嘘をつく。
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ベルゴの鍛冶場は、長屋から少し歩いた工房区画にある。
道すがら、街が目覚めていく様子が見える。窓が開き、煙突から煙が立ち上り、人々が路地に出てくる。パン屋の竈が焚かれ、甘い匂いが漂う。井戸端で洗濯をする音。子どもの泣き声。犬の吠える声。
工房区画に入ると、空気が変わる。煙の匂いが濃くなる。金属を叩く音が遠くから響く。魔導具工房からは魔力の震動が伝わってくる。肌がざわつく感覚。
ベルゴの工房は、通りに面した古い石造りの建物だ。看板も出していない。それでも、仕事を知る者は訪れる。扉を開けると、熱気が顔を打つ。
「来たか」
ベルゴが炉の前に立っていた。背が低く、がっしりとした体つきの鉱人だ。白髪混じりの長い髪と長い髭を束ねている。片目が白く濁っている。
「おはようございます」
「うむ」
それだけだ。ベルゴは多くを語らない。
ゼンは作業着に着替え、炉の火を確認する。魔石が埋め込まれた炉は、一定の温度を保っている。しかし、ベルゴは時々、手動で火を調整する。「機械に任せきりじゃ、腕が鈍る」と言う。
「今日は何を?」
「剣の研ぎ直し」
ベルゴが作業台の上に剣を置く。探索者が持ち込んだものだろう。刃が欠け、柄が傷んでいる。
「まず、柄を外せ」
「はい」
ゼンは道具を手に取り、柄を外す作業に取りかかる。慎重に、丁寧に。ベルゴは黙って見ている。時折、「そこは逆だ」「力を入れすぎるな」と短く指摘する。
柄が外れる。刃が剥き出しになる。
「次は研ぎだ。見ておけ」
ベルゴが砥石を手に取り、刃を研ぎ始める。規則正しい音。シャッ、シャッ、シャッ。水を含んだ砥石が金属を削る。火花は散らない。ただ、音だけが工房に響く。
ゼンは横で見る。ベルゴの手の動き。角度。力の入れ方。全てを目に焼き付ける。
「やってみろ」
「はい」
砥石を受け取る。刃に当てる。研ぐ。音が違う。ベルゴが「角度が甘い」と言う。調整する。また研ぐ。今度は音が近い。
「まあまあだ」
それがベルゴの褒め言葉だとゼンは知っている。
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昼過ぎ、ベルゴが「休憩だ」と言った。
工房の裏に小さな空間がある。ベルゴが腰を下ろし、水を飲む。ゼンも隣に座る。
空を見上げる。
そこに、グライムが浮かんでいた。
空中に漂う岩盤。その上に、崩れかけた城の廃墟が見える。どうやってそこにあるのか、誰も知らない。ダンジョンが生成された時に吹き飛ばされた都市の名残だと言う者もいる。
グライムはゆっくりと移動している。風に流されるように。影が地上を這う。光が岩盤の底面に反射して、金属的に光る。
「不思議なもんだな」
ベルゴが呟いた。
「はい」
「あれがどうやって浮いてるのか、誰も分からん。魔導具工でもな」
「……そうなんですか」
「ああ。だが、そういうもんだ。分からんことだらけだ、この世界は」
ベルゴは水を飲み干し、立ち上がる。
「戻るぞ」
「はい」
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夕暮れ時、工房を出た。
空がオレンジ色に染まっている。グライムに光が当たり、輪郭がくっきりと浮かび上がる。
長屋への帰り道、マーケットを通る。人が溢れている。声が飛び交う。値切る客、怒鳴る商人、笑う子ども。匂いが混ざり合う。焼いた肉、腐った野菜、香辛料、汗。
ゼンは人混みを抜け、ゴミ捨て場の横を通る。孤児たちがゴミを漁っている。小さな手が廃材を掘り返す。骨ばった背中。汚れた服。
視線が合う。獣人の少女だ。狼の耳と尻尾。浅黒い肌。警戒するような目。
ゼンは視線を逸らし、歩き続ける。
何もできない。
自分に何ができる?
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長屋に戻ると、共同炊事場に人が集まっていた。
リザ婆さんが鍋をかき混ぜている。他の老婆たちが野菜を切り、パンを分けている。湯気が立ち上る。温かい匂い。
「おかえり、ゼン」
「ただいま戻りました」
「お腹空いたろう?もうすぐできるよ」
ゼンは井戸で手を洗い、炊事場の隅に座る。老婆たちが話している。
「最近、見ない顔が増えたねえ」
「ああ、商業区画の方にも、妙な商人が来てるって聞いたよ」
「物騒だねえ」
「昔はこんなじゃなかったのにねえ」
ゼンは黙って聞いている。
やがて、鍋から汁が取り分けられる。パンが配られる。ゼンも椀を受け取る。
「ありがとうございます」
「いいんだよ。お前さんも長屋の子だからね」
長屋の子。
その言葉が、胸に引っかかる。
自分は、ここの子なのだろうか。
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夜、自室に戻る。
窓から空を見上げる。月が出ている。星が瞬いている。グライムが月明かりに照らされて、ぼんやりと浮かんでいる。
ゼンは床に座り、膝を抱える。
静かだ。
隣の部屋からいびきが聞こえる。遠くで犬が吠える。風が板壁を揺らす。
自分はどこから来たのか。
なぜここにいるのか。
記憶はない。ヨハンに拾われる前のことは、何も覚えていない。それでも、感覚だけが残っている。
ここは自分の居場所ではない。
どこにいても、同じだ。
自分には価値がない。
そう思う。
それでも、朝が来れば、また棍を振る。ベルゴの工房に行く。リザ婆さんに「ありがとう」と言う。
なぜそうするのか、分からない。
ただ、そうするしかない。
ゼンは目を閉じる。
眠りが訪れるまで、ただ、空虚な時間が流れる。




