第5話 カメラマンの休業日
森川千夏は、十月十日のカメラマンだ。
どんな依頼者の涙も、不安も、喜びも、
すべてレンズを通して受け止めてきた。
だが、その日。
瀬戸要のデスクに置かれていた依頼書は、
見慣れた字で書かれていた。
依頼者:森川 千夏
依頼内容:妊娠初期からの記録撮影を希望します
要は眉を上げた。
「……千夏、本気で言ってるの?」
千夏は少し照れたように笑い、
胸元を軽く押さえた。
「本気。
自分が撮られてる姿なんて、想像もできないけど……
それでも、残しておきたいと思ったんだ」
初日。
カメラを向けるのは、普段千夏の動きや癖を知り尽くしているメンバーだ。
だが——
「……緊張するな」
芦原監督がカメラチェックをしながら呟いた。
「ねえ千夏、笑ったら?」
編集の城戸に言われて、千夏はぎこちなく笑った。
「いや……こんなに緊張するとは思わなかったんだよ」
灯りを調整する手まで震えている。
「撮られる側、こんな気持ちだったんだ……」
千夏はその時はじめて、
自分がいままで向き合ってきた依頼者たちの心を
“体で理解”したような気がした。
千夏は30歳。
長く付き合っていた恋人とは別れ、
「結婚も子どもも、遠い未来」と思っていた。
だが偶然授かった命は、
予想外の不安と、
それ以上の「守りたい」という気持ちを運んできた。
インタビューで瀬戸が聞く。
「……不安はある?」
「めちゃくちゃあるよ。
仕事もこの子も、両方ちゃんと守れるのかなって。
それに……ひとりで産むのは、やっぱり怖い」
けれど千夏は、
どこか少し誇らしそうでもあった。
「でもね。
この子を授かった瞬間、
“あ、私は母になっていくんだな”って分かった。
それをちゃんと記録してほしい」
千夏の撮影は他の依頼者と違い、
独特の空気が流れた。
買い物中でも、
つい棚に置かれたライトの反射に目が行く。
「光、いい感じに入ってるなぁ……」
芦原が苦笑した。
「千夏さん、今日は“撮る側の目”は禁止です」
「でも、気になっちゃうんだよ……あ、ここの影も綺麗……」
「ほら、被写体に戻る!」
みんなが笑った。
こんな撮影は十月十日では珍しい。
だがその“明るさ”の裏に、
千夏の小さな孤独も確かにあった。
撮影中のある日。
千夏は珍しく、夜の部屋で黙り込んでいた。
「ねえ、撮ってもいい?」
瀬戸の声に、千夏は小さく頷いた。
「……怖くなっちゃった。
生まれたら、この子に何をあげられるんだろうって。
私はただのカメラマンで、
家族もいなくて……
この子に胸を張れるものが何もない」
涙を指で拭いながら、
千夏はぽつりと続けた。
「でも……
この子を抱けたら、その時きっと分かる。
母になるって、どういうことか」
カメラの向こうで誰も動かなかった。
ただ千夏の言葉だけが、静かに記録された。
陣痛は夜中に始まった。
スタッフ全員が病院に駆けつけるのは、もはやお決まりの光景だ。
分娩室の外。
普段冷静な芦原までそわそわしていた。
「千夏、痛みに弱いんだよな……」
瀬戸が肩を叩く。
「だからこそ強い人なんですよ、千夏は」
やがて響く、新しい命の産声。
その瞬間、スタッフ全員の目が潤んだ。
納品の日。
城戸が渡したディスクには、
『千夏、カメラの向こう側へ』
と書かれていた。
ラストには、
赤ん坊を抱いた千夏が
カメラに向かって笑うシーン。
「私、いつも人の涙を撮ってきたけど……
自分の涙は、こんなに温かいんだね」
その言葉に、
スタッフは誰一人として涙を堪えられなかった。
瀬戸はそっと言った。
「ここにあるのは、“プロの記録”じゃない。
千夏さんというひとりの人間の、
確かな十月十日ですよ」
千夏は赤ん坊の頬を撫でながら、
静かに頷いた。




