第3話 望まない妊娠と、揺れるカメラ
撮影の依頼メールは、深夜2時に届いた。
『撮るかどうか、まだ決められません。でも……相談だけでもいいですか。』
—鈴木 灯(19)
翌日、十月十日の事務所に来た灯は、
小柄で、緊張しすぎて何度も指先を握りしめていた。
「まだ……産むかどうかも決めてないんです。
でも、毎日気持ちが変わって……
誰に相談しても、“産むべき”“やめるべき”で押しつけられてしまって」
瀬戸要は首を横に振った。
「十月十日は“判断を押す場所”じゃありません。
ただ、あなたが揺れる気持ちを、そのまま撮るだけです」
灯は、泣きそうなような、安心したような顔でうなずいた。
撮影初日。
監督の芦原は、機材を置いたまま動こうとしなかった。
「……灯さん。俺らがカメラを向けるのが辛かったら、言ってね」
灯は少し笑った。
「大丈夫です。誰かに見てほしかったんだと思う」
カメラマンの千夏は、灯の部屋に差し込む光を見つめて言った。
「揺れてる気持ちは、ちゃんと映るからね」
灯の日常は、揺れ続けた。
・カレンダーを見つめるだけの日
・産婦人科に行って帰り道で泣き崩れた日
・ベビー服売り場の前で足が止まった日
・中絶の説明書を読み、震える手で折りたたんだ夜
カメラは、彼女の表情だけをそっと追いかけた。
言葉より、その沈黙が雄弁だった。
ある日、芦原は撮影後のミーティングで珍しく強い声を出した。
「これ……本当に撮っていいのか?
答えを出す前の子を見つめるなんて、俺たちは何様なんだよ」
城戸編集は淡々と言った。
「十月十日は“判断の記録”も撮る場所です。
産むと決めた人だけを映すんじゃない」
瀬戸は静かにまとめた。
「灯さんが“撮ってほしい”と思っている限りは、撮る。
それだけです」
芦原は黙り込み、深く息をついた。
灯は、撮影開始から一ヶ月後、
ひどく腫れた目で事務所を訪れた。
「……決めました。
産まないことにします」
沈黙が落ちた。
千夏はカメラを置いたまま、ただ座り直した。
灯は続けた。
「でも……十月十日に頼んでよかったです。
揺れてる自分を、ちゃんと見てくれる人がいてくれたから……
ちゃんと“自分の選択”ができました」
瀬戸は微笑むでもなく、悲しむでもなく、
ただ頷いた。
「最後まで撮りましょう。
あなたの“十月十日ではなかった日々”を、ちゃんと形に」
灯は涙をこぼした。
「お願いします。
これは……未来の私への記録だから」
完成した映像を灯が受け取った日は、
雨がやんだ春の午後だった。
映像のラストには、灯の直筆のメッセージが静かに流れる。
『私は母にならなかった。
でも、逃げなかった。
自分で選んだことを、私は一生守って生きていく。』
灯はディスクを胸に抱きしめた。
「これがあれば……いつかの私に、あのときの気持ちを伝えられる」
芦原は珍しく、目を少し赤くして言った。
「……灯さんの人生を撮らせてくれて、ありがとう」
灯は小さく笑い、深く頭を下げた。




