第2話 パパのいない十月十日
藤原昭雄は、十月十日の事務所の扉を開いた瞬間、
少しだけ戸惑ったように立ち止まった。
「……本当に、僕なんかが来てよかったんでしょうか」
応対したのはプロデューサーの瀬戸要。
依頼者の最初の不安は、彼にはもう見慣れたものだった。
「“なんか”じゃありません。撮りたい理由があれば、それで十分です」
瀬戸は穏やかに椅子をすすめた。
昭雄は、ゆっくりと胸ポケットから封筒を取り出した。
古い便箋。涙で少し滲んだ文字。
――子どもができました。
あなたなら絶対、いいお父さんになれるよ。
それは、亡き妻・結衣が遺した手紙だった。
「彼女が……あいつが、最後に残した言葉なんです」
昭雄の声は震えていた。
「妊娠に気づいたのは……亡くなる直前だったようで。
僕は、知らなかった。支えることも、そばにいることもできなかった」
瀬戸は黙って聞き、静かに答えた。
「撮りたいのは、奥さんではなく——あなた自身の十月十日、ですね」
昭雄は、小さく頷いた。
カメラマンの森川千夏は、
昭雄のマンションに入った瞬間、立ち止まった。
「奥さんの痕跡が、まだ息してるみたい」
そこには、
途中で畳まれたままのエプロン、
読みかけの小説、
キッチンに残ったコーヒーの香りまで、
結衣という人の“日常のかけら”が残っていた。
監督・芦原はその匂いを感じながら、そっと言った。
「撮ろう。消えてしまう前に」
昭雄は驚くでも怒るでもなく、
ただ頷いて椅子に座った。
「全部残しておきたいんです。
この子が大きくなったとき、母親が生きていた証を見せられるように」
時がたつにつれ、昭雄の日々は少しずつ変わっていった。
母子手帳を受け取った日のインタビュー。
「父親欄を書く手が震えました。
僕がひとりで、この子を守れるんでしょうか」
ベビー用品売り場で迷い続ける姿。
「この哺乳瓶でいいのかな……いや、もっと使いやすいやつが」
夜、結衣の写真に向かって語りかける。
「結衣、俺……できるかな。父親なんて」
カメラは、淡々とその背中をとらえていった。
そこには、派手なドラマはない。
ただ、ひとりの男が“親になる日”に向かって歩いていく姿があった。
予定より早く陣痛が始まった。
十月十日のメンバーが急いで病院に駆けつけると、
昭雄は不安で何度も廊下を往復していた。
「大丈夫です。奥さんが選んだあなたですよ」
瀬戸が声をかけると、昭雄は深く息をついた。
やがて産声が響いた瞬間、
昭雄はその場に立ち尽くし——
涙をこらえきれなかった。
「……結衣。
俺たちの子だよ。
ちゃんと生まれてきたよ」
その呟きだけは、どんなマイクより確かに記録されていた。
納品の日。
編集担当の城戸が渡したディスクのタイトルは、
『昭雄と結衣の子へ』。
映像のラストは、
赤ん坊を抱いた昭雄がカメラの方へ向き、
少し照れながら微笑むシーンだった。
「母さんの分まで、たくさん話しかけるよ。
だからさ……これからは三人で生きていこう」
静かな余韻とともに、画面が暗転する。
瀬戸はそっと付け足した。
「あなたは立派な父親ですよ。
この十月十日が、それを証明しています」
昭雄は目を潤ませたまま、微笑んだ。




