5.月の砂漠
放課後の学校敷地内、野球場のベンチに座っている俺たち。 美大に野球場がある理由は謎だ。誰も野球をしているわけでもない。
その証拠に、ピッチャーマウントには巨大なタコかイカか、はたまた宇宙生物か、よくわからないオブジェが置かれている。なんでも造形科の連中が制作中のものらしい。それを眺めながら、俺たちは何も言わずに静かに酒を飲んでいた。
「このタコ、マジで気持ち悪いっすね」
槇村が言う。 槇村とは、トンカツを学食で奢って以来。何故かつるんでいる。いつも安いカレーばかり食ってる姿を見かねて、豪華なカツカレーにしてやったのがきっかけだった。背の低い、線の細い、切りそろえた黒髪の野暮ったい奴だから、優しくしてやったら案の定すぐに懐いた。
たしかに、夕闇の中で、あのオブジェはますます異様な存在になっていた。
「なんで美大に野球場があるんすかね?」
槇村がもう一度呟く。
「知らん」
俺はただそれだけ答える。 話すこともないし、言うこともなかった。
そのとき、戸川さんがぽつりと口を開く。
「トウミさん、悩みでもあるんですか?」
彼女はソフトドリンクを飲んでいる。
俺は単に、上手く怠惰に日々を過ごしているだけなのだ。しかし。
「スランプってやつかなぁ」
俺は少し考えながら答えた。
「トウミさんの場合、スランプっていうより、考えてなさ過ぎな気がする」
その言葉に、俺は少しムッとした。戸川さんがこんなことを言うのは珍しい。それでも、俺の中ではどこかで納得している自分がいた。考えてない。確かにその通りだ。知っている。俺はただ目の前のことに向き合わず、流れているだけだった。
「俺だって、色々考えてんのよ」
俺は反射的に言ったが、その言葉を吐いた後でさらに自分が無気力であることに気づいた。 戸川さんは少し考えた後、スマホを取り出して画面を覗きながら言う。
「トウミさんのプロンプトの独創性って意味では、最初すごく面白かったけど、その後、何も考えずにただAIに任せているだけじゃ、アートにならないと思うんですよ」
その言葉が、少しだけ心に刺さった。確かに最初、俺はAIに与えるプロンプトの独自性を楽しんでいた。そのことが評価されたのだ。
でも、もうその遊び心で終わらせてしまっていた。アートとしての深さや意図を、俺はどこかで放棄していたのかもしれない。 いや、そもそも、俺は別にアートとか芸術とか、好きでここにいるのではない。
「なんだ、でもさ…」 俺は言葉に詰まって、やり場のない思いをぶつけるように続けた。
「AIに指示するのって、どうしても遊びになっちゃうんだよな。結局、俺は何も考えていないってことなんだよなぁ」
戸川さんは無表情で、ゆっくりとスマホの画面をスクロールしながら言った。
「生成AIって、結局は言葉で動かしているだけだから。プロンプトそのものがアートの一部になり得るんじゃないかな」
その言葉に、俺は何か引っかかりを覚えた。
それは、ただの言葉の羅列ではなく、言葉自体がアートの一部であるということ。
確かに、俺は独特である自覚はある。バカな奴等とは違う。
結局、芸術家気取りの奴等の思考を模倣しただけ。 しかし、
「プロンプトそのものがアート?」
俺は戸川さんの言葉を繰り返す。 戸川さんは静かに頷く。
「うん。アートって、ただの形を作ることだけじゃない。言葉や意図をどう使うかが重要なんだと思うよ」
その言葉は、まるで目の前に光が差し込むような感覚を覚えた。今まで気づかなかったことだ。自分がAIに与えるプロンプトが、そのまま作品の根本であり、形を作るための重要な要素だということに。
「それって、新しい芸術論に、もう一歩踏み込む必要があるってこと?」
知ったように、俺は言った。 戸川さんはゆっくりと、肯定するように頷いた。
「そう。言葉をどう使うかが、その後のアートの質に大きく影響する」
その言葉を聞いて、俺は少し考えた。プロンプトがアートの一部であり、それをどう活かすかが次のステップ。 しかし、そんなことに気づいたからといって、今すぐに何かが変わるわけではない。何もしていない現実に対して、どう向き合えばいいのかがわからないままだ。
槇村がそのとき、空を見上げながら言った。
「このタコには、どんな芸術論があるんすかね?」
俺たちの視線は再びオブジェに向かっていた。巨大なタコかイカかよくわからないものは、変わらずそこに鎮座している。
そして、俺たちはしばらくその奇怪な存在に目を向けたまま、無言で酒を飲み続けた。 戸川さんがもう一度、謎オブジェを見ながら言った。
「でもさ、これがアートなのかもね。最初は気持ち悪いと思ったけど、今はちょっと愛着が湧いてきた」
その言葉を聞いて、俺は少し笑ってしまった。
「確かに、気持ち悪いけど、なんか気になる」
「アートって、そういうことなんじゃないかな」
戸川さんは言って、スマホを見ながら何かを考えているようだった。 その後も、しばらく無駄に時間を過ごしながら、俺たちはまた酒を飲み続けた。
でも、そのとき、何かが少しだけ変わった気がした。プロンプトがアートの一部だと。なんかそれっぽい思考じゃん! と、それをどう使うかが課題だと感じた。
よし。まだだ、まだ上手く立ち回れる。
その時、いつもの物悲しい、夕方五時を伝える、歪んだメロディが流れ出す。
「この曲、なんだっけ?」
「あー、『月の砂漠』っすね」