4.なにもない
ゼミ室に足を踏み入れると、もうすでにいつもの空気が支配している。
何も感じない、何も考えない。ただ、やり過ごすだけの時間が流れている。
教授が俺を見つけて、目を細めて言ってきた。 ああ、またか。どうせ、あの皮肉交じりの声で、今度は何を言われるのか。
「馬渕、また全然進んでないな。」
教授はわかりきったことを、わざわざ口にする。 俺は、何故か一年からこの教授のゼミに入れられた。 半ば命令。三年生や四年生に混じり、どういうわけかここにいる。 教授は少し冷笑を浮かべて言葉を続ける。
「もしかして、その白紙は、それそのものが君の作品かな?」
一瞬、意味がわからない。白紙? 何も描いていないことが、作品になると思っているのか。いや、そんなつもりもない。ただ、描く気がないだけだ。 それに、わざわざこんなことを言われるほどのことじゃないだろう。
「いや、まあ、そんなもんです」
そう返す。できるだけ軽く、興味なさそうに。 まるで、あらかじめ決められた台詞を言うように。 教授が肩をすくめる。
「なるほど、でも、斬新さに欠けるかな」
その言葉に少し笑ってしまう。 斬新さだって? 俺が何をやっても、どうせ評価されないんだろう。斬新さを求められても、それが俺にとって重要なわけじゃない。それに、斬新さって言っても、結局は他の誰かの目を気にするだけじゃないか。俺にはそんなもの、興味もない。
「まあ、考えときます」
その言葉を口にして、教授の視線を避ける。 顔を見たくない。目を合わせたら、また何か言われそうだから。
「本来不合格だった君を拾い上げた、私の顔を潰すようなことはないように」
教授の声が、あたかも決まり文句のように響く。 その言葉を聞いて、心の中で何かが冷たくなった。
ああ、そうだよな。俺がAO入試で受かったのは、結局教授のおかげだ。 推薦されたからこそ、この美大に入ることができた。それを今さら思い出すのは、なんだかバカらしい。 「顔を潰す?」心の中で呟く。馬鹿らしい。
誰も気にしないよ、そんなこと。 俺だって別に、誰かの期待に応えようなんて思ってない。 ただ、卒業さえできればそれでいいだけだ。 でも、教授は本気で心配しているのか、それともただ俺を試しているのか。どちらにしても、俺にとってはどうでもいいことだ。
「わかりました」
一応、そう言っておく。 どうせ、この後も何も変わらないし、俺がどう考えていようと関係ないだろう。 教授が部屋を出て行った後、俺はまた目の前の白紙を見つめる。何も書く気が起きない。何も思いつかない。
そもそも、ここで何をしているのかさえ、わからなくなってくる。 結局、何もやりたくない。だって、どうせ、俺が何を描いたところで、誰かが評価するわけでもない。
でも、顔を潰すわけにはいかない、という意識がどこかでくすぶっている。 それだけが、俺がまだここにいる理由なのかもしれない。 それでも、結局は何もする気になれない。卒業するために、学費を払って、ただそれだけのことだ。
そう思うと、心が少し楽になる。もう、何も考えることなく、ただ目の前の現実に向き合うだけ。卒業してからどうするか? それも考える必要はない。 期間工でも何でも、どうせまた戻るだけだ。 結局、俺はここで何をしても、どうでもいい。それが一番楽だし、他人の期待に応えることは、もういい加減にしてもいいと思っている。
でも、何かがひとつだけ引っかかる。あの教授が言っていた「顔を潰す」という言葉が、どこかで響いている。だが、それにどう応えるべきかなんて、今はまだ考えたくない。