3.正しい場所
翌週の、金曜日、アパートの鍵を返す前に、部屋をからっぽにしていた。 家具も家電も、すべてリサイクルショップに引き取ってもらう。
朝の八時半、業者の男二人が軽トラでやってきた。茶髪にヤンキーっぽい喋り方の兄ちゃんと、もう一人は寡黙な中年。面倒な作業を始める前に、兄ちゃんは「先に一本だけタバコだけ吸わせてもらっていいすか?」と言って外に出た。
座る場所もない部屋の隅でスマホをいじった。
YouTubeを開いて、適当におすすめされたアベプラの切り抜きを流す。テーマは「若者の自己肯定感の低さ」。 画面を見ながら口角をわずかに動かす。 ——そういうやつに限って、クリエイティブな場に来ると、自分を過大評価してる。 救いようがない。
次に流れたのは『令和の虎』。 自己紹介で噛み倒していた青年が、支離滅裂な事業プランを説明している。
「そういうやつに100万渡すやつがいるから、世の中おもしろいっすよねぇ」と、兄ちゃんが戻ってきて言った。「そうっすね」と、短く返す。
冷蔵庫、電子レンジ、パイプベッド、折りたたみデスクとチェア。本棚と姿見も持って行かれる。 洗濯機の排水ホースを外すときだけ、手伝いを求められた。 作業が終わったのは十一時すぎ。
「けっこうきれいに使ってましたね」と兄ちゃんに言われ、「引きこもってただけなんで」と返した。
リュックには、ノートPCとモバイルバッテリー、通帳と印鑑、それに財布。 それだけで足りる。
昼過ぎには不動産屋に鍵を返した。事務的な手続きを淡々と済ませて、何のためなのかよくわからない書類を受け取り、すぐに出る。 学校の近くにある郵便局に移動して、私書箱を借り、転送手続きも終わらせた。
やることがなくなった。 夕方、駅前の立ち呑み屋に入る。角の席に体を斜めにして立ち、まず生ビール、もつ煮、冷やしトマト。しばらくして、タコワサを追加。 店のスピーカーからは昭和歌謡が流れていた。――襟裳の春は、何もない春です――。
周囲の客は、黙って飲んでいる中年が多い。背広を脱いでワイシャツ姿の男たち。長い一週間の終わりに一人で飲むような空気。そこにいる自分も、どこか似ていた。スマホを取り出して、生成AIのアプリを開く。 プロンプトを打ち込む。
"虚無、トマト、内蔵、旅立ち、諦観"
意味はない。ただ、音の感触や、浮かんだ言葉をそのまま並べただけ。ビールをひと口飲んで、出力された絵をスクロールする。見たことのない臓物のような花が、荒野に咲いている。 無意味なようで、意味があるようで、でも意味はない。
再びプロンプトを打つ。
"石灰質の記憶、母音、赤い液体、逆光、劣化したピクセル" もう一杯、ビールを頼む。 グラスの水滴が、カウンターを濡らす。 それを指で拭きながら、視線を窓の外に向けた。街は、なんとなく沈んでいた。
目の前の横断歩道を、スーツの男が歩いていた。反対側からやってきた学生らしき男女が、大声で笑っていた。スーパーの袋を下げた女が足早に店の前を通る。皆、それぞれの時間を生きていた。
みんな必死に生きているように見えた。
"どいつもこいつも、バカだなぁ"、と思う。
根拠は、ない。だが、はっきりとした確信があった。
自分は「美大生」になった。 それだけで、もう、同じ土俵ではない。選ばれた人間。自分だけが、正しい場所にいる。 グラスの中の泡が、ゆっくりと消えていった。