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20.クラゲが沈む月の砂漠に

 資材置き場にはいつもの面々。

 インクの匂いと、湿った木材の匂いが入り混じるその空間で、もうすでに酒盛りが始まっていた。

 空き缶が転がり、どこか冷めやらぬ興奮の残り香がトタン屋根に染み込んでいく。


「あれ? トウミさん、どこ行ってたんですか?」


  戸川が、展示什器のボルトを指でいじりながら問いかけてくる。 俺は答えず、無言のまま資材置き場の片隅に歩を進めた。

 そこには使い古された金属バットが一本、油染みのダンボールの上に無造作に置かれていた。

 バットを握った手に、ほんのわずかに力が入る。


「トウミさん! またバズってますよ! 今日の動画、一万回超えましたって!」


 槇村が、スマホ片手に興奮気味にまくしたてる。 その声も無視した。

 だが、俺は振り返り、少しだけ、唇の端を持ち上げた。

 戸を開ける。向かうは野球場。

  誰かが言った。「おい、トウミさんがまたなんかやらかすってよ!」


「おお、いいぞいいぞ! やれやれぇ!」

「おい、俺たちも行くぞ!」


 ゾロゾロとついてくる。 どこかの時代からはぐれたような、社会からこぼれ落ちた連中が、列をなして俺のあとを追う。

 酒瓶を抱えたやつ、菓子が詰まったビニール袋をぶら下げたやつ、意味もなく太鼓を持ち出したやつまでいた。

 まるで、腐りかけの世の中に向けた、俺たちだけのささやかな革命の行進だった。


 野球場。 照明が例のオブジェを照らしている。 巨大な、そして不気味なその造形物は、まるでタコかイカか宇宙の異物か、判別もつかない。

 補修は済んでいる。だが、形あるものは、いつか壊れる。それが宇宙の摂理だ。


「ねえ、あれ、マブチトウミじゃない?」


 オブジェの前で記念撮影をしていた数人の女子大生風の一人が声がこちらを指さした。

  俺はバッターボックスに立つ。 軟球をカゴからひとつ取り、ふわりと放る。


 そして、 フルスイング。


 キンッ! 快音が球場に響き、打球は一直線にオブジェの頭部へと突き刺さった。


「いぇー!」

「ふぉー!」

「かっ飛ばせー!」


  歓声が後ろから押し寄せてくる。 もう一球。ライト方向へ。

 接触のたび、色紙の貼られた発泡ウレタンが剥がれ落ち、オブジェの表面は次第にただの「材料」に戻っていった。 五十万。 あんなもんで五十万。

 思い出しただけで、腹の底が煮えくり返る。 怒りのままに振り抜く。

  触手の一本が千切れ、地面に落ちる。


「ストラーイク!」と誰かが叫び、誰かが笑った。

  笑い声は伝染し、球場はいつのまにか、さながらフェス会場のようなざわめきに包まれていた。


「槇村ぁ! 今から配信できるか?」


「もうやってますよぉ!」


 スマホのレンズの向こうで、そしてこの狭い世界で、また何かが起きるのだろう。

 だが今は、そんなことどうでもよかった。 キン! キン! キン! 打ち続ける。

  誰かがボールを拾って投げ返してくる。 知らない女の子がボールにサインをしてくれと求めてきた。 俺はプロ野球選手じゃない。が、悪い気はしなかったので快く応じた。


 俺は何者になれたのだろう? いや。ただの、 どこにでもいる、男の成れの果てだ。


 それでも、 この瞬間が眩しいほどに輝いている気がした。

  バカバカしくて、くだらなくて、それでいて、 誰よりも本気で生きている気がした。

 いや、俺だけじゃない。どいつもこいつも、みんなこれほどまでに狂おしく、美しく、必死に生きているではないか。


「おい、コラーッ! マブチトウミィィ!」


 怒声。 向こうから、造形科の連中が走ってくる。 顔を真っ赤にし、怒りを全身にみなぎらせながら。 安全帽とゲバ棒の連中もいた。あいつらは本当になんなんだ?

 カメラを持ったYouTuberたちや、 ティラノサウルスの着ぐるみまで走ってくる。

 もう、可笑しくて可笑しくてたまらない。


「金だろ金! てめぇ、タダで済むと思うなよ!」

「今度こそブッ飛ばしてやるからなァ!」

「何してくれとんのじゃ、ワレェ!」

「舐めてんだろテメェ! ボコせぇ! ボコしちまえ!」

「やってやんぞクソ野郎がぁ!」


 言葉の一つひとつが、滑稽に響いた。まるで、映画の台詞みたいだ。すべてが演劇のようで、すべてが現実だった。

 どうせまた、面倒ごとになる。 どうせまた、謝罪だの賠償だの、処分だのとややこしい話になる。 だが、もういい。


  クラゲのように、流れに身を任せてここまできた。 海流に逆らうでもなく、ただ気まぐれな潮に押されながら漂ってきた。そして今たどり着いたのが、こんな場所だった。

 たぶんこの先も、どうせいつかはまた沈む。 でも、沈むまでの時間を、俺は俺のやり方で泳ぎきりたい。

 すべてのチャンスボールを、全力で振り抜きたい。 どうしようもない人生でも、フルスイングくらいはしてやる。

  俺は、バットを握り直した。 後ろから聞こえる仲間たちの声援。 前から近づく怒号。

 どっちも、やかましくて、うるさくて、そして、

 たまらなく愛おしかった。


 知らん顔をして、 俺は、バッターボックスに立ち続けた。

続編にあたる別作品『クラゲが還る水星の岸辺に』の連載開始いたしました。

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