16.燃えているもの
「起きろぉ! 起きろ! ヤバい、って、早く、ゲホッゲホッゲホッ」
耳元で誰かが叫んでいる。喉の奥が焼けるように痛い。咳と涙と鼻水が同時に込み上げ、目を開けた途端、世界は白く煙っていた。
「なんだ……何が、ゲホッ、どうなってる……?」
目も、鼻も、何もかもが刺すように痛む。咳き込みながら立ち上がろうとするが、重い空気に身体が沈む。視界の端で何かが揺れている。人か。
「扉を開けろ! 早く出ろ!」
誰かが叫んだ。その声に引き戻されるように、意識が徐々に浮上してくる。 ここは、資材置き場――いや、俺の自室だ。昨夜、学園祭の準備のため、ソサイエティの連中とここで雑魚寝したのだった。
「トウミさん! トウミさん! どこですか? うぇっ、ゲホッゲホッ!」
戸川の声だ。俺は大声で返した。
「戸川! しゃがめ、下はまだ空気がある! 這って出口に向かえ!」
白煙の中を、十数人の影が這いずりながら外へと向かう。誰かが泣いていた。誰かが笑っていた。怒鳴り散らす奴もいる。現実感は希薄で、まるで悪夢の中を歩いているようだった。
屋外に出ると、ようやく息ができた。空気はまだ朝の湿り気を帯びている。咳が止まらない。槇村が手に何かを握って立っていた。
「トウミ先輩、これっすよ。これ!」
黒い缶。なんだか見覚えがある。強烈な薬剤臭がまだ喉の奥に残っていた。
「なんだよ、それ……?」
「業務用のバルサンっす。百平米用のやつ。たぶん、また嫌がらせっすね」
「俺達は害虫だってか? いくらなんでもやり過ぎだろ……これはもう、傷害罪だ。ゲホッ……」
喉の痛みは次第に咳き込みへと変わり、内側から炎が噴き出してくるようだった。誰かが救急車を呼んでいた。冷ややかな朝の光の中、俺たちは立ち尽くすしかなかった。
「造形科の連中か?」
誰かがつぶやいた。けれど、確証はない。監視カメラがあるから、証拠も残っているかもしれない。だが、あいつらのことだ。そんな初歩的な失敗はしないだろう。
「トウミ先輩、ちゃんと謝ったじゃないすか! 五十万円も大金払ってんのに!」
確かにな、だいぶ、預金は減ってしまった。 次の稼ぎ口は決まってないが、繋ぎとしてはじゅうぶんではあるし、まあ、また稼げばいい。
「謝って終わりじゃねーんだな。叩ける理由があるから叩く。そういう人間もいる」
そう言ってやったが、
「じゃあ何だったんすか! トウミ先輩、あれだけさらし者になって、まだ許されないんすか?」
そう言って、泣きそうな槇村。本当におまえは可愛い後輩だよ。
煙が引いてから、室内に戻る。壁に立て掛けられた俺の作品は無事だった。『絶対証明』――そう名付けた作品だ。
膨大なプロンプトを食わせて生成した、宇宙を漂うクラゲ。また工業科に無理を言って、特殊印刷をしてもらった。縦1.8メートル、横1.2メートルの大型のデジタルアート。
俺は安堵からふぅ、と息を吐いた。
俺は一人、学校の近くのコインシャワーで身体を流し、ランドリー前のベンチに腰掛けた。
喉の焼ける感覚がまだ消えない。自販機で買ったコーラを喉に流し込む。泡が、熱をなぞるように通っていく。
だから、辞めるべきだったのだ。もっと早くに。
俺の謝罪会見の動画は、またしてもバズった。いや、大炎上した。SNSのタイムラインは怒りと皮肉と嘲笑にまみれ、コメント欄は地獄と化した。
>金取るのやり過ぎじゃね? 恐喝じゃん
>このトウミって裏口入学だろ
>学校に住み着いてるホームレス
>やばくねこの学校。顔にモザイクくらい入れろよ
止めようもなく、炎は広がり続けた。大学の広報も、教員も、何も言わない。いや、もう言えなかったのだ。引火点は過ぎていた。
美大の、どこか曖昧で自由なはずの空気は、いまや瓦礫のような硬さと埃に包まれていた。学生の間にも、見えない線が引かれた。仲間だったはずの人間が、目をそらすようになった。正義の名のもとに、告発と吊し上げが繰り返され、時には防衛本能が暴力に変わった。
先端科とメディア科、造形科、ゼミ同士であったり、あれやこれやの派閥が鉄火場の如く言論合戦を繰り広げるに至っている。 所々に横断幕が掲げられ、風にたなびいている。
"生成AIは芸術に非ず!"
"革新こそがアート"
"マブチトウミを追放せよ"
"資本主義の限界は来た!"
"脱成長こそが新しい生存戦略"
"奨学金帳消しを求める!"
学科なのかゼミなのかサークルなのか、もしくは何かの派閥なのか、徒党を組んだ連中が好き勝手な主張をする。俺は関係ないだろ! と叫びたくなるものもある。
なかには、ゲバ棒を持ち、ヘルメットを被るコスプレ野郎どもも現れ、真っ昼間から集会を開き何かを叫んでいる。何がしたいんだ、ほんとに。
このことは、大手メディアも取り上げた。地上波のニュースはこう報じた。
*“令和の美大闘争――学生同士の対立激化”*
それは、もはや俺一人の問題ではなかった。ただ、きっかけは、俺だった。すべてが始まったのは、あの動画からだった。 いや、俺が入学しなければ、
夏の終わり、松本から帰ってきてすぐに大学を去ろうとしていた。あのときが、最期だったはずだった。だが、戸川と槇村が泣きそうな顔で言った。
「せめて、今年の学祭は一緒に!」
その言葉に抗えなかった。せめて、最後に一度だけ、祭りを共に過ごしてから去ろうと、そう思った。
だが、皮肉なことに、導火線についた火を見過ごしていたのだ。それは火薬庫に続いていた。小さな善意が、大きな炎に変わった。
コーラの炭酸が抜けきっていた。ぬるく、甘ったるい液体が、口の中に広がる。空は静かだった。蝉の声もない。もう秋か。
煙の記憶がまだ、身体の奥にこびりついていた。 笑えてきた、もう笑うしかなかった、
遠くから、『月の砂漠』が聞こえてきた。




