14.終わる気配
夜の七時。
松本の町に、夏の湿っぽい夜風が通っていた。
展示会場から歩いて十五分。食べログでそこそこの評価の蕎麦屋に、俺たちは三人で入った。
戸川が言った。「ここ、割と有名らしいですよ」 槇村も続ける。「インバウンドの観光客も多いらしいっすよ」
二人のそんな言葉を、俺は曖昧に頷いて聞いていた。 声を出すのが億劫だった。
照明は落ち着いていて、窓越しに通りの灯がちらちらと映っていた。
店内にはジャズのような、雅楽のような、どこか中途半端な音楽が流れていた。
俺は冷酒を二合注文し、あとは天井近くに貼られたメニューに目をやるふりをしながら、それを待った。 酔いたかった。今日のこの、妙な感情の名前を曖昧にしてくれる程度には。
三人とも、天ぷら蕎麦を注文した。 少し高めの値段に戸川が目を丸くしたから、俺は「奢るよ」と言った。 二人は大げさに喜んでみせた。
「さっす先輩!」
「いぇーい! カッコいい!」
その軽口に笑って返すふりをしたけど、心の底がざらついたままだった。
そして、急に恥ずかしかくなった。何かを、金で埋めようとした自分が。 十歳ほど離れていて、同じ学舎にいる二人。それなのに、こうして気を使わせている自分が。 ──今日、昼間に見たあの展示のせいだ。
立体映像モニター。最新の技術らしい。空中に浮かぶクラゲが、ゆらゆらと泳いでいた。薄紫や青の光を透かせて、時折、触手がしなやかに揺れた。
音もなく、ただ浮かび、消えていく。 それだけだった。だというのに、俺は、何も言えなかった。
確かに、美しかった。あれを見て、何か言葉を紡ぎ出すべきなのか。何かを感じたふりをすべきなのか。 そんな自分の問いが、恥に似ていた。確かに感じた。 感じてしまったのだ。俺は、
"アートとは何なのか?"
ということを。そして、知った。
それは、俺なんかには決して至れない到達点だということ。
「学祭、どうします?」
と、槇村が言った。
俺は、箸袋を指先で揉んでいた。酒の味はしなかった。
「クラゲ、参考になりますよね。演出とか」
戸川が相づちを打つ。
「ああいう没入感って、使えそうっすよね!」
二人の声が、だんだん遠のいていく。俺の耳だけ、違う場所に置き去りにされたようだった。彼らの語る未来が、光沢のある風船のように、ふわふわと遠ざかっていくのが見えた。 ──あ、もう。言ってしまおう。
けれど言葉は、喉の奥で粘っていた。冷酒をぐいと飲む。喉が焼ける。
ようやく、口が開いた。
「俺、学校辞めるわ」
箸を持ったまま、戸川がこちらを見た。
槇村が「え?」と声を漏らす。
「……何言ってんすか」
「冗談でしょ?」
「ううん。本気」
それだけ言って、黙った。
胸の奥が少しだけ、空っぽになった。
その空っぽさが、俺にはやけに心地よかった。
蕎麦が届いた。天ぷらの衣はサクサクしていて、美味しい気がした。気がしただけだ。本当は、美味しいのかどうか、よくわからなかった。
酔えないまま、また酒を煽る。夜の窓に映る俺の顔が、クラゲのように揺れて見えた。