10.再帰する風景
二年生になった。
春のキャンパスには相変わらずスミレが咲いていたが、それすら気にも留めずに、俺たちは歩き、飲み、語り、時には黙っていた。
何も変わらない。いや、少しずつ少しずつは変わったのかも知れない。
俺の住処である資材置き場はアップデートした。 というか、たまり場になってしまったので、集まってくる奴らが勝手気ままに色々やっている。 中古のモニターが増えた、石油ストーブも置かれた、誰かが勝手にエアコンまで設置した。 壁にペンキでポップアートを描いてしまった奴もいる。 ゴミ置き場から、ソファーを回収してきやがった奴もいる。 煩わしくも迷惑だが、その度に怒鳴り散らかしては、基本受け入れている。
新しい学年が始まったが、正直、授業の内容はあまり記憶にない。
むしろ、夜な夜な誰かと飲んで、くだらない話で馬鹿みたいに笑っていた時間のほうが色濃く残っている。
そんな感じで、大学の敷地の隅っこ、今では俺の家とも言える資材置き場には、誰ともなく人が集まってくるようになった。 名前もなかったはずのその集まりは、いつのまにか「ソサイエティ」と呼ばれるようになった。 誰が最初にそう呼んだのかは知らない。でも、その名前が、まるで最初からそこにあったかのように、ぴったりと馴染んでいた。
教授たちもその名を知っていた。あえて無視しているのか、それとも好意的な黙認かは分からない。けれど、「何かが起きている」ことだけは、誰もが分かっていた。
戸川も、相変わらずそこにいた。 二十歳になってから、戸川も酒を飲むようになった。彼女のお気に入りは、市販の梅酒サワーをさらにレモンスカッシュで割るという、甘ったるくて妙に薄い飲み方だった。 「甘すぎると、酔えないんですよ」と、どこか誇らしげに笑うその姿が、なんだか可笑しかった。
彼女はしばしば、俺のいる資材置き場に寝泊まりしていた。そのことが妙に噂になり、俺と付き合っているのでは、などと勝手に囁かれていた。 戸川は顔を真っ赤にして否定していたが、俺は否定しなかった。いや、むしろその誤解の中に、どこか安心していた。
騒がれれば騒がれるほど、俺は自由になれた。噂話は時にバリアになる。周囲の視線も、好奇の目も、まとめて煙に巻いてしまえる。
いつものように、授業の合間や放課後、知らない女子学生に突然話しかけられる。
「ちょっと、相談いいですか?」
またか、と思ったが案の定、恋愛相談だった。どうやらまた戸川の紹介らしい。スタバで話を聞いたが、俺が言えたのは「それでいいと思うよ」とか「相手の目をちゃんと見て話せば伝わると思う」なんて、曖昧なことばかりだった。 それでも彼女は、「ありがとうございます!」と笑顔で帰っていった。
後で戸川にそのことを話すと、「紹介しておきました」とまたもあっけらかんと言うので、アイアンクローをかました。
「やめてくださいってば! 髪が崩れるー! ギブ! ギブ!」
そんな一幕もいつもどおり、 騒ぎながら笑っていた戸川の顔は、妙に無防備だった。
一方、大学の外では、あの動画が思わぬ広がりを見せていた。 ネットで炎上しかけて、ある意味バズったその映像は、俺の故郷にも届いていた。母からLINEが来た。 ──動画見た。あれ、あんた? 無理してない? 兄貴からも、「なんかやってんな」とだけ書かれた短いメッセージが届いた。 「大丈夫」とだけ返した。
心配されるのは少し照れくさかったが、嬉しくもあった。
そんなある日、突然、戸川と槇村が俺のいるゼミに入ると言ってきた。 「メディア系より、こっちのほうが面白そうだったんで」 槇村はそんなふうに言ったが、実際には多分、俺についてきたのだろう。
戸川は何も言わなかったけれど、その眼差しはずっと俺の動きを追っていた。
俺たちは、毎日、夜な夜な語った。作品のこと、社会のこと、恋のこと、死についてさえも。
時々、誰かが球場にいきましょう! と言い出し、バットを振るう。その打球が飛んで、謎のオブジェの一部をまた破壊するのだ。
「これこそがアートだ!」
俺がそう言ったら、皆が笑った。
「トウミ先輩って、野球上手いっすよねぇ」
槇村が聞いてくる。
「小さい頃はプロ野球選手になりたくて、高校まではやってた」
「なんで、やめちゃったんすか?」
「大谷翔平にはなれないから」
あいかわらず、大学内で知らない学生に声をかけられる。
「トウミさんですよね。ディベート、お願いできますか? 動画撮りたいんですけど」
またか、 また、対応はいつも通り、これも相変わらず。
翌日には、「トウミさん、お疲れッス!」
またか。 まあ、いいけど。
全然有名ではない配信者に突撃されたり。 そこそこ有名なYouTubeコンテンツにちょっとだけ出演したりもした。 本当に色々あった。
教授は、俺たちの動きを黙って見ていた。時折、酒の席にふらりと現れて、静かに杯を傾ける。多くを語らないが、鋭い言葉を一つだけ落としていく。
「お前が言う『言葉にならない』は、言葉にできるんだよ。できないふりをしているだけだ」
いや、わからない。 ある日、教授が一枚のチラシを渡してきた。 ──展覧会をやるらしい。 タイトルは《再帰する風景》。 そこに描かれたアクリル画は、どこか懐かしい。循環する、でも戻らない。かつてあった風景に、もう一度手を伸ばすような、そんな気がした。
「お前も、そろそろ自分のやつ、まとめてみたらどうだ」
教授はそれだけ言って、いつものように立ち去った。 俺は黙ってうなずいた。
火照った夜の空気の中、ソサイエティの仲間たちは、今日もまた資材置き場に集まってくる。 誰かがスピーカーでジャズを流している。槇村はエレキギターを持ってきて、意味不明なノイズを鳴らしている。 戸川は、梅酒サワーを手に、目を細めて俺を見ていた。
「トウミさん。次は、何するの?」
俺は空を見上げた。春の夜空には、星も、月もなかった。
「なんでもいいかな。面白そうなのがあれば、やる」
それが、俺の答えだった。 展覧会は、来月の頭。 スマホのスケジュールに、その日付を書き込んだ。
風景は、また戻ってくるのかもしれない。でも、それは同じようで、まったく違う景色になるだろう。 それでいい。