種まきと育み
男はまき散らし、女は育み育てる。
くすんだ赤い大地が広がるその場所は、人類が初めて火星に定住の礎を築いたコロニーの外縁部だった。
空気はまだ薄く、地球に比べれば圧倒的に生きづらい環境だというのに、人間はたくましく生きるための場所を作り上げている。
重厚なドーム状の天蓋の下、小規模な農区画がいくつも設置されていた。
その中の一つで、鷹也は今日も朝から種まきをしている。
長身をかがめ、赤土と培養した土を混ぜ合わせた畝に、小さな芽が宿るはずの粒を一心にまいていた。
農区画とは名ばかりでまだ試験的な段階だが、やがて人類の新たな命を支える穀物を育てようというのが鷹也の夢だった。
「まさか火星で農業をやる日が来るなんて、地球にいた頃は想像もしなかったな。」
鷹也はそうつぶやき、背中の汗をぬぐった。
外は氷点下なのに、ここでは作物が育つ適温が保たれている。
半透明のドームを透かして見える灰色の空を見上げると、息苦しいような期待感が胸を満たす。
少し離れた居住区には、妻の琴音とまだ幼い娘が暮らしている。
琴音は大学で植物遺伝学を学んだ経験を活かし、鷹也の試験農区画で育てる作物の改良に取り組んでいた。
鷹也が種をまいた土を細かく検証し、水分量から温度管理までを緻密に調整し続けているのだ。
もし彼女の研究がなければ、鷹也がいくら種をまき散らしても芽は育たないだろう。
「また新しい配合を試してみるわ。火星の土と地球の培養土との混合率をもう少し高めにしてみる。きっと根が強く張れるはずよ。」
琴音は研究室さながらの狭い作業スペースで、サンプルを前にデータを整理している。
その横では娘のユイが、人形を両手に持って遊んでいた。
母が忙しそうにしていても、ユイはこまめに声をかける。
「ママ、それなあに?なんで土を混ぜるの?」
琴音は「大事な実験よ」と言って、優しく笑う。
「あなたのお父さんがせっせとまいた種がちゃんと育つための、大切な準備をしているの。」
夕暮れの時間になると、照明を少し落としたドーム内を淡いオレンジ色の光が包む。
鷹也はシャベルを立てかけ、ひとまず今日の作業を終えた。
気づけば指先には土の汚れが幾重にも染みつき、爪の隙間まで赤くなっている。
疲労感は否めないが、今は少しでも多くの種を土に落としたい。
鷹也は肩を回しながら、そっと笑う。
「まだ誰も見たことのない火星の農地を、俺たちが切り開いてるんだな…」
その頃、居住区の小さなキッチンでは、琴音が湯を沸かしながらユイに夕食を用意していた。
「パパ、今日も遅いのかな」
ユイはスプーンを握りしめ、心配げにドアのほうを見つめる。
琴音は煮込みスープをかき混ぜながら、「すぐ戻ってくるわよ」と応じる。
娘の顔には少し寂しげな色が浮かんでいたが、琴音はそこにあまり言葉を添えない。
男はまき散らし、女は育み育てる。
それは口にこそ出さないが、鷹也と琴音の間にある無言の了解でもあった。
やがて鷹也が重い扉を開け、少し疲れた笑みを浮かべて帰宅する。
ユイが飛びつき、琴音は湯気の立つ食卓へ促した。
「おかえり。どう?今日の畝の状態は」
琴音は鷹也の顔を覗き込むように尋ねる。
「あと少しだけ改良が必要そうだ。でも、かなりいい感触を得てる。火星でも作物がしっかり育つ未来が、少しずつ見えてきたよ」
鷹也の声には、具体的な手応えがこもっている。
鷹也の腕に掴まったまま、ユイが小さな声で尋ねる。
「パパ、どうしてそんなに種をまくの?お花が咲くの?」
鷹也は笑ってユイの髪をくしゃりと撫でる。
「お花だけじゃないよ。みんなが食べられるお米とか麦とか、お野菜とか…。ここで育てることができたら、みんなが元気に生きていけるんだ」
ユイは「ふーん」と言ったきり、まだうまく実感がわかない様子だった。
琴音は優しく娘の背をさすって言う。
「あなたがもう少し大きくなったら、お手伝いしてくれるかしら」
翌朝、ふたりはユイを連れてドームの農区画に向かった。
防塵用の小さなヘルメットをかぶったユイは目を輝かせ、鷹也の隣で土を指先で触れた。
火星の土はざらざらとして赤く、地球の庭先とはまるで違う。
「これ、本当にお野菜になるの?」
ユイの疑問に、鷹也は穏やかに頷く。
「ちゃんと育つよ。でも、そのためにはお母さんの研究も大切なんだ」
琴音はユイの手を取り、培養土の袋を指さす。
「ここに入ってる養分が種を助けてくれるの。
でも、それだけじゃ足りなくて、温度や水の量、いろいろ考えないといけないのよ」
ユイは不思議そうに首をかしげながら、その袋を両手で抱えてみる。
その重さに少しよろけそうになると、鷹也が支えてやった。
「パパ、ママ、わたしも育てたい。ここでお花も野菜も、ぜんぶ育てたい」
ユイがそう言ったとき、琴音はほんの少しだけ目を潤ませたように見えた。
どうやら研究に追われる日々でも、娘には確かな夢が宿りはじめているらしい。
地球では当たり前だった食糧生産が、火星ではまだまだ未知の領域だ。
鷹也が「まき散らす」ことに命をかけるのは、試行錯誤の末に生まれる可能性を信じているからだろう。
琴音が「育み育てる」ことをやめないのは、その可能性が確かに結果を結ぶと知っているからだ。
二人の背中は遠い宇宙のどこかから見れば小さな点に過ぎないかもしれない。
けれど、その点はやがて大きな希望の光になるのだと、どちらも疑っていない。
男はまき散らし、女は育み育てる。
この赤い惑星で花開くには、まだ多くの時間が必要だろう。
しかし、小さな種たちはすでに土の中で息づき始めている。
そして、その種を見守る人々の夢もまた、地球から遠く離れた地でゆっくりと芽吹こうとしていた。
今日も鷹也は畝に肥料を撒き、琴音は研究所にこもってデータを解析する。
ユイはそんな両親の姿をまねして、足元の土に小さな指で水をたらしてみる。
思いがけず泥が跳ねて、ユイの頬に赤い点を作っても、彼女は気にせず笑っていた。
「パパ、ママ、見て。土からなにかが出てきたよ」
ユイの目の前には、ほんのかすかな緑の芽が顔を出している。
鷹也と琴音はまるで宝物でも見つけたように顔を見合わせ、そして笑みを交わす。
種はまかれ、芽は育ち始める。
いつかこの星でも、たわわに実った穀物を抱える日が来るだろう。
男はまき散らし、女は育み育てる。
そして子どもは、その両方を受け継ぎながら、新しい未来をつくる。
赤い大地に浮かぶ淡い光を浴びながら、小さなコロニーは今日も生きている。
そこに集う人々は決してあきらめない。
大気は薄く、厳しい自然環境が続くそれでも、火星に新しい命の息吹を根づかせようとする人間の営みは止まらない。
鷹也たちの足下では、か弱い芽がしっかりと根を張りはじめていた。