一話〜出奔〜
全ての元凶は、叔父の何気ない姪の自慢話。そんな些細な事で、私の人生は荒波に飲まれた。
西大陸の中心に位置し、周辺諸国を統括するローエンシュタイン帝国の現皇帝には、正妃が一人側妃が六人がおり、七人の皇子がいた。
側妃の一人であり寵妃と呼ばれたアデライン妃は病弱で中々子を授からなかったが、苦難の末に帝国で七番目の皇子を身籠った。だが病弱故に、子を産むと同時に命を落とした。
皇帝は悲しみに暮れ、寵妃の忘形見である第七皇子を哀れみ溺愛した。
生まれたばかりの皇子に帝国随一の宮殿であるセレーナ宮殿をあてがい、皇子一人の為に何百人の侍女や執事、護衛騎士に衛兵を用意した。
母同様に生まれながらに病弱な皇子は十歳まで生きれないと宣告を受ける。そんな皇子はセレーナ宮で大切に育てられ、また皇子の言う事は絶対であり誰も逆らう事はない。そんな中で育った皇子は、我儘で手がつけられなくなり周囲は困り果てていた。
そして皇子が五歳の時、絵本を見て「ぼく、結婚したい」と言った。その報告を受けた皇帝は直ぐ様皇子の妃選びを始めた。
帝国貴族で皇子と年が近く、また容姿、性質、知性などが吟味された。
そして、たまたま首都に来ていたエヴェリーナの叔父が参加した夜会で姪自慢をした事でエヴェリーナに白羽の矢が立った。
他人より少し賢く、他人より少し容姿がいい。そんな幼いエヴェリーナを大人達は才女だと持て囃した。
誰かが冗談で、将来は皇子様のお妃様だねなどと言って笑ったが、まさかそれが現実になるなど誰が思っただろうか。
エヴェリーナは貴族の娘ではあるが、田舎貴族である子爵家の生まれだ。皇子妃など天地がひっくり返ったってありえない話だった。なのに、それがひっくり返ってしまった。
僅か八歳で、第七皇子妃に選ばれ一年の厳しい妃教育を経てエヴェリーナはローエンシュタイン帝国の第七皇子妃となった。
後に周りからは、出涸らし妃などと陰口を叩かれる存在となるなどこの時は夢にも思わなかったーー
離縁が決まってから半月程経つが、あれから毎日、ジュリアスはメリンダを宮殿に連れて来ている。
ただ別段珍しい事ではない。
何故ならジュリアスが学園に通い出して直ぐに彼女と知り合い、それから一ヶ月は毎日のように連れて来ていたからだ。今に始まった事でない。そして離縁を言い出したのはそれから間も無くだった。
「エヴェリーナ様、なんだか奪ってしまったみたいでごめんなさい」
ジュリアスが席を外した瞬間、メリンダの顔から笑みは消え心にもない謝罪を口にした。
「でもやっぱり、ジュリアス様は若くて可愛い私の方が良いみたいなんです。仕方ないですよね? 出涸らし妃様」
「そろそろ日も暮れますから、メリンダ様、お引き取り下さいませ」
「ふん。もう直、私がこの宮殿の女主人になるんだから、澄ましてられるのも今の内ですよ。ふふ、本当は悔しい癖に」
勝ち誇った様子で先程エヴェリーナの目の前で二人が記入した婚姻書を掲げて見せる。
一応確認はしたが、離縁書同様本物である事に間違いない。
正直、独断でこんな事をしてまかり通るのかと思わなくはないがあの陛下の事だ。書類さえ正規の物ならば簡単に承諾するだろう。何しろたった五歳の息子の呟き一つで妃を充てがい、その結果エヴェリーナはここにいるのだから。
取り合う事なく笑顔でメリンダに帰るよう再び促すと、更に悪態を吐いて帰って行った。
その夜、エヴェリーナは一人部屋で荷物整理をしていた。
現在、皇太子は不在であり逃げるなら今しかない。
これまで皇太子との関係は良好であり、談笑するくらいの間柄ではある。だが、彼は所詮ジュリアスの兄であり、また弟を可愛がってる。ジュリアスの味方をする事は目に見えていた。
誰も助けてはくれない。そんな事はこの十年で嫌という程分かっている。分かっているからこそ、逃げるしかない。無責任だと、弱虫で情けないと分かっている。でも、一秒たりともここにいたくない。
ふと手を止めると、昼間のメリンダの言葉が頭を過った。
出涸らし妃ーー最近社交界でエヴェリーナの事を陰でそう呼ぶ者達がいる。
ジュリアスが学院に通い出す少し前くらいからだろうか。
幼い頃からずっと病床に伏せていたジュリアスが快気し、これからどうするのかとの噂で社交界では持ちきりだった。
年上の古い妻を捨てて、心機一転華々しく社交界デビューするのでは? と憶測が飛び交う。
ただ昔から帝国貴族達はエヴェリーナの陰口を叩く者が多く今に始まった事ではない。ただ流石に出涸らしとまで貶されるのは良い気はしない。それでも素知らぬフリを貫いた。だがまさか現実になるとは思いもしなかった。
私は一体なんだったんだろうーー
ただただそう思う。
普通なら怒りや憎しみが湧き起こるのかも知れないが、今エヴェリーナの中にあるのは少しの悲しみとひたすらの虚無感だけだ。
十年、辛くても苦しくても耐えてきた。誰にも負けないくらい努力してきたと自負出来る。
この華やかな忘れられたセレーナ宮殿でジュリアスの世話に明け暮れた。勉学に仕事に皇子妃としての責務、皇太子の相談にも乗ってきた。
ジュリアスからの無理難題な要求に応え続け、部屋の掃除や食事、看病。彼の身の回りの事は、彼の要望通り全てエヴェリーナが行った。
ジュリアスが快気して、ようやく少し肩の荷が降りたと思った矢先、浮気からの離縁要求、更に浮気相手との再婚宣言。しかも離縁後もこれまで通りエヴェリーナとも暮らすという。
無茶苦茶だが、皇帝は溺愛するジュリアスの要望を聞き入れるだろう。そうなれば、あの二人の召使いのようになる未来しか見えない。
「荷物と後は手紙……」
用意した手紙は全部で五通。
宮殿で共に働いてきた使用人や護衛騎士、衛兵達に向けた物。エヴェリーナが管理していた領地の領主代理に向けた物とそこに同封した知人への物。ジュリアスの兄でもあるローエンシュタイン帝国皇太子への物とジュリアスへの短い手紙。
一瞬、生家である侯爵家にも認めるか悩んだが、嫁いだ後は疎遠となっているので必要ないかとやめた。
長い髪を纏め上げ、用意していた平民のワンピースに着替えるとマントを羽織る。
小さな鞄を手にすると、静かに続き部屋の扉を開けた。
「……」
穏やかに眠るジュリアスからは、小さな寝息が聞こえてくる。
十年前、初めて彼と対面した時、あんなに病弱だったのが嘘のようだ。眠る時でさえ苦しそうにしていたが、今はもう大丈夫だ。
(……さようなら、ジュリアス様)
エヴェリーナは、ゆっくりと扉を閉めると部屋を出た。