夜に命を捨てる。
夜に手すりに手を掛ける。さあ、準備はできた。未練は、ない。降りるだけ。1人で。
手すりに手を掛けて身体を浮かす。そのまま跳ぶ。前へ前へ。
景色が変わる。流れるように、蠢くように。ゆっくり流れる走馬灯。クラスメイト。先生。先輩。後輩。そういえばいたな。隣の家にすんでいた男の子。名前も忘れたけど……。
その景色はいきなり止まる。身体には重力がかかる。
「なにやってんだよ!!」
襟を掴まれているから後ろは向けない。
身体が重力に逆らう。
「何でっ……何でたすけたのっ?」
「ああ? おめぇ、重くね?」
私に言ってる? 女子に言うような言葉ではない。
「何トンあんだよ?」
トン!? 今こいつトンて言った!? いや、聞き間違えただけだ。
「5トンくらいか?」
聞き間違えじゃない!?
「50キロだし」
言って、は、とした。
「いった! 自分の体重自分でいうヤツ初めてだ」
お腹を抱えて笑う。つられて笑った。
「誰だ!?」
警備員が来た。ヤバい、と思ったとき、隣にいる男がにゃあ、と言い出した。
バカ、と喉まで出た。
「いぬか」
犬じゃない、猫でしょ!? 警備員が下に降りていく。隣の男が噴き出した。
「犬だとよ。『にゃあ』が」
「ホントにね。『にゃあ』は猫だよね」
2人で笑い、
「俺は中野 慶太。きみは?」
「渡辺 華」
そのつぎに続く言葉は容易に想像できた。
「職場も……、親ももううんざりなんだ」
「職場というとモデルの話?」
え、と言葉が口からもれた。
「最近有名でしょ。テレビには毎日出てるし」
「そう、なの。圧力しかない仕事。自分の心を殺してまでやるべきなのかな、て」
塞ぎ止めていた蓋が取れたみたいに、コップをひっくり返したように止めどなく口からもれる。
「娯楽のように虐めるネットも嫌だ。昨日まで文句言ってたくせに今日になったら手のひら返し」
最近問題になり始めたばかり。
「わたしがそれで死んだらもっと厳しくなるかな、て」
空を見上げる。
「おかしいよな。法律だって重大な事件が起こった後に足りなかっただの言い出すんだ。きっと防げたのに。誰かが死なないと革命は起こらない。文明なんてそんなもんだよ。ほら、なんだっけ?イギリス船長の事件」
「ノルマントン号事件?」
出てきた自分を褒め称えたい。
「そうそう。あれで、治外法権を変えたんだろ?……死んだから」
そうかもしれない。
「お前の考えはおかしくないとおもうよ。じゃあさ、華が死んだ時間を俺にくれよ」
「は?」
思わず間抜けな声が出た。
「覚えてないかー。じゃ、お姉ちゃんって呼ぶよ」
「あ、ケイくん?」
パズルみたいにすべてのピースが繋がった。
「そうそう。命の恩人、ケイくんだよ」
にいっと笑って続ける。
「一緒に世界を見ようよ。ひとつの目線だけじゃダメだよ。『生きろ』何て言わない」
「じゃ、なんていうのさ?」
「『好きにしな』だね。生きるも死ぬも『好きにしな』」
「ぷ……ぷろぽーず……?」
何て言う放任主義。
「判った。『好きにする』よ」
あの日から何日、何ヵ月、何年たったのだろうか。あの後電撃引退して、少なからず世間の話題になった。
全部『好きにした』結果。
昨日も今日も明日もずっとずっとずっと前へ前へ前へ。
1人じゃない。全部。2人だ。進もう。戻らない。いや、戻れない。
「なに考えてるのさ」
後悔は無くならない。常に後悔の連続だ。
傷も無くならない。心に負った深い深い傷はずっと傷付け続ける。
でも、楽しみも無くならないんじゃないか。暗いことばかり考えてられない。
1人じゃないから。1人で悩んで。悔やんで。叫んで。閉じ込めて。そんなことはもうしない。
「これからはいつまでも一緒だから」
言葉って何だろう。
言葉は糸となって心を結ぶ。
言葉は盾となって心を守る。
言葉は武器となって心を殺す。
言葉は呪縛となって心を塞ぐ。
どれも言葉には出来る。
じゃあ、命って何だろう。
命は大事と判ってるくせに奪う。
命は一緒と判ってるくせに買う。
命は一つと判ってるくせに手放す。
命は違うと判ってるくせに強要する。
命は治せないのに祈る。
人間は馬鹿なのか? いや、違う。
人間は他人頼りなのか? いや、それも違う。
何なんだろうな。人間って。
朝に手すりに手を掛ける。嗚呼、準備はまだだ。未練は、ある。それでも良い。『好きにする』から。足は怖じ気付いている。落ちるだけ。1人だ。
手すりに手を掛けた。十分生きたから。飛び降りる。前へ前へ前へ。流れる走馬灯。
襟を掴まれているから、重力を感じる。え、と思う。あの人は死んだのに。
「なにやってんだよ!!」
そこにいたのは慶太だった。
次は夜に命を捨てよう。
どうでしたか? おもしろかった、というかたは『魔法奇異』も読んでみて下さい。