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第4話

 改めてカナヲの目を通して目の前の景色を見れば、使用人たちが敬愛を込めた眼差しで見つめ、自ら道を開けてくれる。

 以前なら、こうして廊下を歩いていても、道を譲ってもらえることなどなかった。

 それどころか、膨らんだバッスルスカートが触れた時など、舌打ちと共に「ほんと邪魔だねぇ」と聞こえよがしに言われた。


「奥様、おはようございます。今日も相変わらずお美しいですね」

「ふふふ、ありがとう、ヒルデ。貴女こそ、今日も素敵な笑顔ね。貴女の笑顔に、私も元気をもらっているの」

「やだ、そんな、もったいないお言葉です」

「奥様が考案されたシフォンケーキ、すっごく美味しかったです!」

「事業のほうも順調だって聞きました」

「そりゃそうよ、あんなケーキ、誰だって食べたがるに決まってるじゃない」

「やっぱり奥様は凄いです! 綺麗で頭も良くて、才能豊かで……皆を笑顔にする女神様です!」


 嘗てはクロートーを小馬鹿にしていた侍女たちが、今では目を輝かせて、それこそ女神でも崇めるような目でパルフェン公爵夫人を見つめる。

 彼女たちの言う通り、クロートーは周囲からの後押しもあって、ある事業を始めた。

 扱う商品は、クロートー自ら考案したシフォンケーキという焼き菓子だ。

 従来のバターケーキともエンゼルフードケーキとも異なる、薄絹のような柔らかな食感を持つこのケーキを初めて食べた侍女たちは、感動のあまり言葉を失った。

 クロートーの友人である貴族の奥方たちも同様で、その内の一人が「これは是非とも特許を取って事業を興すべきです!」と提案した。


 その後は、あれよこれよという内に話が纏まり、公爵領の一等地に店を出すことに決まった。

 シフォンケーキは文字通り飛ぶように売れ、領外どころか国外からも注文が相次ぎ、更には皇室への献上菓子として指定された。

 シフォンケーキは、植物油を材料とすることで独自の食感を生み出す。

 それを聞いた時、誰もが公爵夫人の発想力と着眼点に驚いた。


 もちろん、シフォンケーキの作り方もパルフェン公爵夫人自ら考案したものではなく、カナヲが元の世界で聞きかじった知識だ。

 本当は、ハリー=ベーカーという人物による考案らしい。

 他人の発想を自らのものとして公表し、人々に分け与え、賞賛と羨望を得る。

 これが正しいことなのかクロートーにはわからないが、何にせよ、パルフェン公爵夫人に対する評価は完全に変わった。

 本物のクロートーを知る者は公爵夫人は変わったと言い、噂でしか知らなかった者はやはり噂など当てにならぬものだと一笑した。


(私がいないほうがいいのかしら)


 日に日にパルフェン公爵夫人の評価が高まっていく様を、その本人の目で眺めながら、クロートーはそんなことを思った。

 今までも心の片隅で感じながら、それでも認めたくなかった現実を、この時初めて直視した。


 気弱で愚かで惨めで無能無才のクロートー=フォン=パルフェン。

 美しさと賢さを兼ね備え、誰も思い付かない発想で人々に驚きと感動を与えるクロートー=フォン=パルフェン。

 どちらが求められるかなど、考える間でもない。

 心が痛みを訴え、泣き叫びたいのにそれすらも叶わない。

 いっそのこと、自我など早く消えてしまえばいいのに。

 そんなことを考えながら、クロートーはそっと目を閉じた。


(……ダメよ!)


 心の奥底から切なる声が響いた気がしたのは、果たして気のせいだったのだろうか。




 眠りから覚めるように、再び意識が覚醒した。

 まだ消えていないことに安堵すると同時に、今度はどれぐらい長く眠っていたのだろうかと不安になる。

 楽しそうな話し声が、どこからとも聞こえる。

 すぐに、それが自身の口から発せられているのだと気付いた。


「それ以来、すっかり打ち解けてしまって。私たち、今ではもうお友達です。素敵ですよね、身分も人種も超えて仲良くできるって」


 カナヲは今、自室のソファに座って隣にいる人物に話しかけている。

 彼女の話に耳を傾けながら、相槌を打つのはパルフェン公爵アルベルトその人である。

 クロートーは心臓が大きく跳ねるのを感じた。

 同時に、鋭い痛みを覚える。


 アルベルトはあまり表情豊かなほうではないが、今は穏やかに微笑みながら、真剣にカナヲの話に聞き入っている。彼がこの時間を楽しんでいるのは明白だ。

 嫁いでからの一年間、カナヲがこの身体を支配するまで、彼とこんな風に過ごせたことはなかった。


 身体の感覚などとっくに失ったにも関わらず、全身から力が抜けるのを感じた。

 もう、自分の居場所はどこにもないのだ。

 そう確信した時、アルベルトが「さて」と呟いた。

 先ほどまでと語調が、そして纏う雰囲気が変化したように感じる。


「今日、時間を取ってもらったのは貴女に聞きたいことがあるからです」

「はい?」

「貴女はいったい何者だ?」


 カナヲは一瞬、言葉を失った。

 アルベルトの瞳に、困惑気味のパルフェン公爵夫人の顔が映っている。

 すぐに気を取り直したように、首を傾げて苦笑を浮かべる。


「私はクロートーですよ。アルベルト、貴方の妻ではありませんか」

「いいや、違う」


 笑いを含んだカナヲの言葉を、しかしアルベルトはきっぱりと否定した。


「貴女はクロートーじゃない。見た目はそっくり……いや、身体はまさしくクロートー本人のものだが、人格は別人だ」


 何か言おうと口を開きかけたカナヲだが、言葉を紡ぐことはできなかった。

 アルベルトは、尚も淡々と続ける。


「初めは気のせいだと思った。何しろ、常識で考えれば他者の身体を別人の人格が乗っ取るなど有り得ないからな。それでも、拭っても拭いきれぬ違和感が常に付き纏う。それで、暫く観察させてもらうことにしたんだ」


 そこで言葉を切り、射貫くような眼差しを妻に……パルフェン公爵夫人に成り代わった異世界人へと向ける。


「貴女が何者で、何故クロートーに成り代わろうとするのかは知らない。しかし、妻を返してもらおう。ここは貴女がいるべき場所ではない」


 クロートーは、名状し難い感情が胸に溢れるのを感じた。

 気付いてくれた、というのが最初に抱いた率直な気持ちだった。

 乗っ取られた当初こそ、クロートーは中身が自分ではないことに誰も彼もが気付くのではないかと、戦々恐々としていた。


 しかし、それは杞憂に過ぎないばかりか、誰もがクロートーではない公爵夫人を褒め称え、慕い始めた。

 人は、劣化という変化を気にすることはあっても、悪いものが良い方向へと変わる分にはそう気にしないものだと思い知った。

 正確には、自分にとって都合の良い方向というべきか。


 笑顔のまま凍り付いたカナヲは、何度か口を開こうとした。

 しかし、肝心の言葉が何一つとして出て来ない。

 やがて、その笑顔に苦々しいものが混じり始める。


「……何を根拠に、私がクロートーじゃないって思うんですか?」


 カナヲの動揺は相当なもので、口調も本来のヒロセカナヲのものに戻っている。


「簡単なことだ。まず、変化があまりにも唐突かつ極端すぎる」

「そ……そう見えたかもしれないですけど、私はもっと前から変わろうと思ってました。なかなか勇気が出なくて、実行できなかったってだけで……」

「確かに、人は発言や他者への態度といった表層的な部分を変えて、別人のように振る舞うことがある。そうすれば、他者から『彼女は変わった』という評価を受けるだろう。しかし、根本的な性質というのはそう変わらないものだ」


 カナヲが息を呑んだ。

 相手の言葉が、具体的に何を指すのかわかりかねて困惑している。


「それは、どういう……」

「クロートーは、他人との接触に人一倍気疲れを覚える人だ。それに、パーティーや茶会のような人が多い場所も苦手としている」

「だから、それも含めて私は変わったんです」


 早鐘を打つ心臓を宥めながら、無理矢理笑みを浮かべてみせるカナヲ。

 アルベルトは首を左右に振った。


「世の中には、大きく分けて二種類の人間がいる。一つは、他者との交流に喜びを見出し、その相互作用から充足感を得る者。もう一つは、一人でいることを好み、内省と向き合うことで充足感を得る者だ。後者のようなものは、人間同士の相互作用によって強い疲労感を覚える。こればかりは、表面だけ取り繕っても決して変わらない気質だ。ここ最近のクロートー……いや、貴女は茶会やパーティーで多くの人と接した後、とても満足そうにしていた。一人の時間を持ちたいなどとは、露ほども思っていなかっただろう?」

「それは……」

「私自身、クロートーと同じ性質の持ち主ということもあって、貴女が本物のクロートーならそんなことは有り得ないとわかるのだよ」


 クロートーは心の底から驚いていた。

 彼の言う通り、昔から人が多く集まる場所は大の苦手だった。

 親の意向で、知らない人に挨拶をさせられたり、人前でダンスをさせられた時などは心身共に消耗して、数日に渡り疲労感が残った。

 そんな彼女に誰もが呆れたが、アルベルトの言葉に侮蔑の色はない。


 それどころか、「同じ」とさえ言った。これを意外に思ったのは、クロートーだけではなかった。

「アルベルトが、対人恐怖症ですって? まさか、そんな。いつも多くの家臣と接し、人に指示を下してるじゃないですか。取引先とのやり取りとか、騎士たちへの指示とか、本物の対人恐怖症ならそんなことできなくないですか?」

「対人恐怖症、というのとは少し違うが。他者と交流を図る術は、あくまで後天的に身に着けたものだ。座学や馬術と同じだな。私が言っているのは、あくまで生まれ持った気質の部分になる」


 そこまで言って、アルベルトは真っ直ぐにカナヲの……いや、クロートーの目を見つめる。

 射貫くような眼差しに、小さく息を呑んだ。


「クロートー、私の声が聞こえますか?」

(はい、聞こえます!)


 声を限りに叫んだ。

 しかし、やはりそれがクロートーの口から発せられることはなかった。

 尚も諦めず、身体の奥底から声を絞り出す。


(アルベルト様、クロートーはここにいます! まだ消えていません!)

(ここにいます! ここにいます! ここにいます! ここにいます! ここにいます!)


「ここに……います……!」


 クロートーははっと顔を上げた。

 今、掠れて消え入りそうではあったが、確かに声を発することができた。


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