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第3話

 アルベルトとの出会いは、今でも鮮明に覚えている。

 クロートーが十四歳の時のことだ。

 社交界デビューを果たしたばかりのクロートーは、この年の皇太子の誕生パーティーに出席した。


「見て! パルフェン公爵家のご長男よ」


 そう言ったのは、クロートーの「友人」の一人だった。

 友人、とは言っても両親の意向で行動を共にしていただけで、決して仲が良いわけではなかった。

 むしろ、チクチクと嫌味や意地悪を言ってくる彼女のことを、内心で苦手に感じていた。


 クロートーよりも三つ年上だというアルベルト=フォン=パルフェンは、自分とは住む世界が違う存在だと、一目見た瞬間から理解した。

 その貌は、人智を超えた技術を持つ精霊が腕によりをかけて創り上げた彫像のように整い、遠目にも均整の取れた長身の持ち主だとわかった。

 誰から話しかけられても、如才なく対応している。

 彼に纏わる様々な噂話……文武両道にして眉目秀麗、騎士の中の騎士、帝国の宝、といった賞賛はクロートーも耳にしたことがある。


 この手の噂は得てして大袈裟になりがちだが、もしかしたらあながち誇張でもないのかもしれない。

 キャッキャとはしゃぐ「友人」らを尻目にクロートーはぼんやりと他人事のように考えた。

 それから暫くの後、クロートーは会場を抜け出して中庭へと退避した。

 ヴィクター侯爵の者として相応しくない行動だと理解していたが、どうしても限界だった。

 昔から、人が多く集まる場所が苦手だ。

 これ以上あの場所に留まっていたら、卒倒してしまう。

 幸い、一緒に来た少女たちは早くも相手を見つけて会話やダンスに興じていて、クロートーのことなど意識の外だ。


 既に日が暮れているとは言え、等間隔に明かりを置いた中庭は、クロートーの姿を完全に隠してくれるほどの暗さはない。

 最も太い幹を持つ樹木の側に来たものの、その影に入るだけでは不十分に思えた。

 凹凸のある表皮は登りやすそうに見えて、一瞬の逡巡の後、スカートをたくし上げて登ることにした。


 昔から、一人遊びは好きだった。

 その一人遊びの中には、読書や裁縫のみならず、木登りや探検ごっこも含まれている。

 木の上まで来て、ようやく一人になれたと実感する。

 遠くから聞こえる演奏が耳に心地良い。広間にいた時は、その大音量に圧倒されて頭がクラクラしたけれど。


 詰めていた息を吐き出すと共に、どのくらいの間ここにいてもいいだろうかと思案する。

 貴族の子女が多く集まるパーティーにおいて、ヴィクター侯爵の娘として積極的に他者と交流するべきだと頭では理解はしている。

 しかし、もう既にすっかり疲れ果ててしまって、交流どころではない。


(そんなことだから、お前は皆に馬鹿にされるんだ)

(はあ、情けない。本当に情けないったらないわ。自分が惨めにならないの? お前には矜持というものがないのかしら?)

(この香水、皇妃様もご愛用なのよ? 知らないの? クロートーって、本当に何も知らないのねぇ)

(クロートー様は、血統と容姿に恵まれてよろしゅうございますね。もしもお生まれが平民でしたら、生きていけないところでしたよ)


 両親、使用人、他家の子女たちの侮蔑の言葉が、次々と脳裏に浮かぶ。

 思わず唇を噛み締めた。頭から振り払いたいのに、長年に渡って投げ続けられた言葉の数々は、クロートーの意識に深く刻み込まれてしまい、そう簡単には消えてくれない。


 思考を中断したのは、何者かの足音が聞こえたからである。

 ぎくりとして地表へと視線を走らせるも、姿までは見えない。

 はっきりと視認できたのは、その人物がクロートーがいる木の根元まで来たからである。


 パルフェン公爵家の嫡男、アルベルトその人だった。

 クロートーは内心で毒づいた。

 彼のような人が、こんな場所に何の用があると言うのか。

 所在なさを感じて退避したわけでもないだろうに。

 早く退散して欲しい、クロートーの切なる願いも虚しく彼は木の幹に背を預ける形で座り込んだ。

 庭師によって手入れされているとは言え、剥き出しの地面の上にである。


 せっかく用意した晴れの衣装が汚れてしまうのではないか、クロートーは自分のことを棚に上げて心配した。

 とは言え、実際問題、他人の心配をしている場合ではない。

 クロートーのいる場所は、明かりが届かないほど地表から離れているわけではない。彼が上を向けば、すぐに見つかってしまう。そうなれば、かなり不味いことになる。

 自分の頭上に人がいるなど露知らぬアルベルトは、大きく息を吐き出した。

 それは、先ほどまで多くの人を魅了する笑顔を振りまいていた青年と同一人物とは思えないほど、酷く疲れた溜息だった。


「……疲れたな」


 ごく小さな呟きだった。

 それでも、重い響きを感じずにはいられない。

 クロートーは、先ほどまでの焦燥を忘れて呆然としていた。

 何だか、見てはいけないものを見てしまった気分で、罪悪感にも似たものを覚える。

 その時、身体の均衡を崩した。


「きゃっ……!」


 視界が大きく揺れる。

 大きく目を見開くアルベルトの顔が見えた。

 枝にしがみつき、何とか身体を支えようとするも、そのまま身体は虚空へと投げ出されてしまった。


 咄嗟に枝を掴んだものの、宙吊りになった状態である。

 爪先と地表との距離はそこそこ離れていて、このまま手を離すには高すぎる。

 背中を嫌な汗が伝う。

 どうすれば、と思った時、アルベルトが叫んだ。


「手を離すんだ」

「え……」


 大いに困惑するクロートーに、アルベルトは更に続ける。


「私が絶対に受け止めます」


 その言葉から、口先だけではない揺るぎない意思が伝わって来る。

 クロートーは躊躇した。

 とは言え、腕の力だけで全体重を支えるのはそろそろ限界だ。


「早く!」

「は、は……」


 はい、と答えようとしたが上手く言葉にならなかった。

 鋭い声に促される形で、思い切って手を離した。

 ほんの一時、全身を浮遊感が包み込む。

 それも本当に僅かな時間で、支えを失った身体は重力に引かれて落下する。

 次いで衝撃を感じたが、それは覚悟したほどのものではなかった。


「……っ」

「あ……」


 クロートーの身体を受け止めたアルベルトが、小さく呻いて何歩か下がる。

 しかし転倒することもなく、何とか踏み止まった。


「あ、わ、私……その……」

「怪我はありませんか?」


 パルフェン公爵家の嫡男に、とんでもない無礼を働いてしまった。

 青ざめるクロートーに、しかしアルベルトは心配そうに尋ねた。

 咄嗟に頷くと、彼は表情を和らげた。


「ああ、良かった」


 心底安堵した口調だった。

 クロートーは自分の身に起きたことが理解できぬまま、彼の顔を見つめることしかできずにいた。

 暫し、呼吸することさえ忘れてしまう。


 我へと返ったクロートーは、深々と頭を下げて謝罪した後、殆ど逃げるようにその場を後にした。

 この日の出来事は誰にも知られることなく、また、アルベルトにも正体を明かさぬまま終わった。

 アルベルトとの邂逅は、クロートーしか知らない。

 そして、この邂逅はクロートーの心の奥底に深く刻み付けられた。

 彼とはもう二度と会うこともないだろう、そう思っていた。

 両親から、自身の婚姻について告げられたあの日までは。




 翌日、クロートーは違和感を覚えた。

 それが何であるか、すぐには理解できなかったものの、数日の間に嫌でも理解せざるを得なくなった。

 目覚めていられる時間が、前より短くなったのだ。

 今まで、カナヲが起きて活動している間はクロートーの意識も目覚めていたのに、その時間が日を追う毎に短くなっている。

 最初は困惑を、次いで冷たい恐怖を覚えた。


 憶測だが、カナヲの意識がクロートーの身体に、そして人生にそれだけ馴染んだということではないだろうか。

 つまり、もう殆どカナヲのものになりかけている。

 遠からずクロートーの意識は完全に消える。


 既に呼吸などしていないのに、耐え難い息苦しさを覚えた。

 誰にも気付かれぬまま、身体の人生と赤の他人に乗っ取られ、その誰かがクロートーの全てを手にする。

 あまりにも残酷な話ではないか。


 命を落としても、自分が存在した事実そのものが消えることはない。

 しかし、他人に身体を奪われて意識だけが消えるとなれば、クロートーは初めから存在しなかったも同然だ。

 着実に迫りつつある現実に、クロートーは戦慄を覚えた。

 できることなら泣き崩れているところだが、今はそれすら叶わない。


 十九年間生きてきた記憶が次々と蘇る。

 まず初めに浮かんだのは、父の怒りと嫌悪に歪んだ顔。

 そして、蔑んだような母の眼差し。

 クロートーにとっては当たり前だった日常。

 思い出して胸が痛みを覚える辺り、決して慣れることはなかったようだ。


 クロートーは、昔から気の触れた子供だと言われていた。

 他の者には気にならない音が気になり、衣服の手触りに対する好き嫌いも多く、少しでも感触が不愉快に感じたドレスは着たくなかった。

 物心がついてすぐに宛がわれた自室は、常に異臭味が漂っていてとても嫌だった。

 しかし、侍女たちは何の臭いもしないと言うし、両親に訴えてもうんざりされるばかりだ。

 また、暑さ寒さへの堪え性にも欠け、人との接触を極端に嫌い、人が集まるパーティーに出席すれば必ず体調を崩して寝込んだ。


 ある時、夕食の際に出されたスープを飲んだら、とても酷く飲めたものではなかった。

 父に怒られながら飲もうとしたものの、二口飲んだだけで気分が悪くなって嘔吐してしまった。

 あの時もこっぴどく怒られたものだ。

 自分ではそんなつもりではないのに、何をしても誰かの不興を買ってしまう。

 何を習っても、教師の溜息を聞いただけで萎縮して、頭の中が真っ白になる。

 緊張に強張った心身は、更なる失敗を誘発するという悪循環。


 両親がクロートーに辛く当たれば、それが使用人たちにも伝わり、無意識かに「この娘は粗末に扱っても構わないのだ」と思うようになる。

 そして、いつしかクロートーは無能無才の侯爵令嬢と呼ばれるようになった。

 肩書きが公爵夫人に変わった今も、評判そのものは変わらない。


(全くいい思い出がないわね)


 クロートーは自嘲的に嗤った。

 しかし、灰色の記憶の中で唯一、アルベルトとの邂逅だけが仄かな燐光を放っていた。



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