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第2話

 その直後、乱暴な音を立てて扉が開く。


「朝っぱらから何を騒いでるんですか!」


 扉の向こうには、髪をきつく結い上げてメイド服に身を包んだ女性が立っている。

 メイド長のシャロンだ。

 シャロンの怒声を受けたクロートーは、自分が怒られたわけでもないのに萎縮してしまう。

 シャロンは目を吊り上げて、まるでゴミでも見るような顔でクロートーを……クロートーの身体を操る者を睨んだ。


「まったく、パルフェン公爵夫人たる者がはしたないにも程があるわ。もう少し慎ましくできないんですか。貴女の言動が、公爵様とご実家の名に泥を塗ることになるんですよ」


 クロートーは頭の中が真っ白になるのを感じた。

 この時ばかりは、身体を動かす者と意識が同調したようだ。


「す、すみません」


 彼女もまた、すっかり萎縮した様子で頭を下げた。

 シャロンの背後から、小さな笑い声が聞こえた。

 笑いを堪えきれなくなった、という様子が妙にわざとらしい。


「シャロンさん、無理難題言っちゃ奥様が可哀相ですよ」


 面白がって同調する声がいくつも上がる。とは言うものの、彼女たちは本当にクロートーを気遣っているわけではない。

 何しろ、嫁いでからの一年間、クロートーはシャロンを初めとしたメイドたちから常に軽んじられ馬鹿にされ続けてきた。

 いや、それはパルフェン家に嫁いだ後に限ったことではなく、実家であるヴィクター侯爵家にいた時もだ。


 物心ついた頃から、クロートーは常に怒声と嘲笑を浴びて育った。

 自分でもどうしてなのかよくわからないのだが、クロートーは他の者が当たり前にできることの多くができない。

 誰かと言葉を交わすだけでも、木々のざわめきや足音といった些末な音に掻き消され、相手の言っていることが聞き取れない。

 結果、相手を怒らせたり呆れさせてしまうことは日常茶飯事。

 僅かな気圧の変化や遠雷の音、他の誰も気に留めないような小さなことで、すぐに心身に不調をきたす。

 当然ながら、このような体質は日常における様々な場面で困難を招く。


 無能無才にして脆弱、気弱で馬鹿、取り柄と言えば血統と容姿だけ。

 それがクロートーの……クロートー=フォン=ヴィクターの専らの評判だった。

 嫁ぎ先でも、クロートーの評判は変わらない。

政略結婚とは言え、あんなつまらない女と結婚させられたパルフェン公爵がお気の毒。

 何度、聞こえよがしにそう言われただろうか。


 そして今、クロートーは自身の肉体の主導権さえ奪われている。

 それから、どうすることもできないまま一週間が過ぎた。

 身体の主導権を持つ者と意思疎通も試みたが、それも叶わなかった。

 とは言え、この一週間でいくつかわかったこともある。


 というのも、次第に彼女とお互いの記憶を共有できるようになっていったからだ。

 彼女……ヒロセカナヲは、クロートーの全く知らない国で生まれ育ったようだ。

 平民出身の労働者で、お世辞にも良いとは言えない環境かで働いていた。

 驚いたことに、二十代も半ばになってまだ未婚だった。

 責任感が強く、前向きで向上心が強い反面、自分の限界を無視して頑張りすぎてしまう性格だということも知った。


 二日連続で徹夜……カナヲがいた世界では「サービス残業」と言うらしい……した翌朝、食べ物を買いに行こうとしたカナヲは、階段から足を滑らせて凄まじい衝撃と共に意識を失った。

 ……これが、ヒロセカナヲとしての最後の記憶である。

 カナヲは今の状況について、「これってイセカイテンセイじゃないの」と呟いていた。

 クロートーにはイセカイテンセイというものが何なのかわからないが、カナヲ本人はこの状況を早々に受け容れた。


 クロートーとしては大いに慌てた。

 普通、見ず知らずの他人の身体に押し込まれ、身に覚えのない日常を押し付けられたなら、もっと動揺するものではないのか。

 カナヲにも家族や友人、それに恋人もいたというのに、いきなり「貴女は今日からパルフェン公爵夫人です」と言われて何故こうも容易に順応してしまえるのだろう。


 しかし、クロートーの焦燥を余所に、カナヲは着実に新たな人生に馴染んでいった。

 まず初めに彼女がしたことは、シャロンを初めとする侍女たちへの制裁だった。

 ある日、シャロンの横面を叩き、頬を赤くして呆然とする彼女に「身の程を弁えなさい、無礼者」と言った。

 公爵家の侍女、しかも公爵夫人の側近という立場には大いに旨味がある。

 この職を失いたくない侍女たちは、思いもよらぬ反撃に竦み上がり、面白いぐらい露骨に態度を改めた。シャロンはそう簡単には折れず、それどころか更なる嫌がらせをしたが、それが徒となって、カナヲに尻尾を掴まれる形で警邏へと突き出された。


 そのすぐ後に、パルフェン家と取り引きのある豪商が長い船旅を終えて帰還した。

 しかし、彼は壊血病を患っていた。不治の病と恐れられるこの病気を前に、誰もが彼の死を確信した。

 ところが、クロートー……となったカナヲが新鮮な果汁を与えたところ、見る見る内に快復へと向かった。今ではすっかり元気を取り戻した彼は、あの日以来、すっかりクロートーの熱狂的な信者となった。

 いや、彼だけではなく、共に船上で過ごす団員たちもである。


「団長の命を救ってくださってありがとうございます! 公爵夫人は団長の命の恩人です!」

「ああ、公爵夫人! 貴女は尊きお方!」


 彼らはこぞってクロートーを聖女や女神のように崇め奉った。

 この一件を機に、誰もがクロートーに対する見方を変えた。

 クロートー、いや、カナヲはカナヲで味を占めたと言わんばかりに様々な知識を披露し、取り引きのある商人や貴族のみならず、使用人や騎士、領土に住まう民たちに分け与えた。


 類い稀なる洞察力と知識を持ち、それでいて全く驕らず心優しい美貌の夫人。

 これが、最近のクロートーの評判である。

 しかし、クロートーだけは知っている。

 カナヲが持つ知識は、彼女が元いた世界では決して特別ではないことを。

 カナヲは「ニホン」という国の「ヘイセイ」という時代に生まれた。

 ヘイセイのニホンは、信じられないぐらいに文明の発達した世界で、薄い板のようなものに文字を打ち込むだけで様々な知識に触れることができるらしい。

 つまり、カナヲは先人たちが膨大な時間と労力を費やして得た知識を、さも自分の手柄のように話しているに過ぎない。


 それに、もし彼女がヒロセカナヲのままであれば、この世界に来たとしても知識を披露する機会はなかっただろう。

 身元不明の人間が、壁の内側を歩いていれば怪しまれない筈がない。そんな疑わしい人間の話を誰が聞くだろうか。

 しかし、パルフェン公爵夫人の身体と立場を得ることができたら?

 その答えこそが、今のクロートーを取り巻く現状である。

 劣悪な労働環境下に身を置く労働者だったカナヲは地位と名声を手に入れ、彼女が元の世界で身に着けた知識により多くの人々に貢献している。

 カナヲが言うところの「イセカイテンセイ」により、誰もが前より幸せになった。

 ただ一人、クロートー本人を除いて、だが。




 

 ……この日の、いつもとは趣向を変えた茶会も大盛況の内に終わった。

 名残惜しそうな顔を見せる友人を見送った後、カナヲは満ち足りた気分で鼻歌を歌っていた。

 クロートーは、自分の身体の隅に意識だけを押し込まれたまま、その鼻歌を聞いていることしかできない。


 その夜、夫であるアルベルトがクロートーの部屋へと訪れた。

 彼の姿を見た瞬間、心を強く掴まれたような気がした。

 結婚して一年経つが、今もアルベルトと対面する度に極度の緊張を覚え、心臓がうるさいほどに早鐘を打つ。

 常でさえ口下手なクロートーは、アルベルトを前にまともに言葉を発することができた試しがない。


 カナヲのほうはと言うと、アルベルトを初めて目にした時「パツキンの超イケメン、絵に描いたようなスパダリ系、マジやばい」と評価した。

 どうやら、「いい男」「美男子」といった意味合いらしい。


「あら、アルベルト。今日はご来訪の予定は聞いていませんでしたけど」

「申し訳ありません。迷惑だったでしょうか」

「まさか! でも、突然どうしたのですか? お忙しい貴方が、二日と空けずにいらっしゃるなんて」

「ええ、まぁ」


 アルベルトは珍しく言葉を濁し、目を逸らした。

 その横顔が、いつもより赤く見えるのは気のせいだろうか。

 気のせいであって欲しい、クロートーは心からそう思った。

「君の顔が見たくて、と言ったら笑われるでしょうね」


 早口に、呼気に紛らわせるように発した言葉。

 しかし、クロートーもカナヲもちゃんとその内容を拾い上げていた。

 カナヲは一瞬きょとんとした顔をして、それからクスクスと笑う。


「あら、ごめんなさい。可笑しくて笑ったわけじゃないんです。何だか、貴方がそんな風に仰るのが新鮮で」

「……らしくない、という自覚はあります」

「アルベルト、こちらへどうぞ。今、お茶を用意いたしますわ」


 カナヲはアルベルトを……クロートーの夫をソファへと促し、自身はお茶を淹れる準備を始める。

 ここ最近、そう、カナヲの人格が芽生えてからというもの、アルベルトとの関係性に変化が起き始めた。

 前は情事の時も含めて、最低限の会話しかない間柄だったが、近頃はこうして他愛もない会話に花を咲かせる機会が増えた。

 尤も、その会話相手はクロートー本人ではないのだが。


「君の淹れてくれたお茶は美味しいですね」

「そう言っていただけて嬉しいですわ」


 お茶を飲む合間、アルベルトは何度もカナヲの目をじっと見つめた。

 カナヲは頬を染めつつも、はにかんだように微笑む。

 その度にクロートーの心は千々に乱れ、泣き叫び出したい衝動に駆られた。

 だが、どんなに苦悶しても自分の思いを口に出すことも、この場から逃げ出すこともできない。


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