第1話
この日、パルフェン公爵邸には、公爵夫人ことクロートーに招かれた女性たちが集まっていた。
彼女たちは今、屋敷の一室にて珍しいお茶を楽しんでいる最中である。
クロートーの白い手が、小さな箒を逆さにしたような不思議な形状の器具を動かす。
茶筅、という名称らしいが、クロートーを含むこの場にいる誰もが初めて見るものだ。
お茶を飲むにはやや大きめの鉢の中で茶筅を小刻みに動かす内に、緑色の粉末と少量の湯とが混ざり合って泡立ち始める。
その間も、クロートーは自分の身体が行う一連の動作を眺めていることしかできない。
今、十九年間慣れ親しんだこの身体の主導権を握っているのは、クロートーではない。
クロートーは、自分の目という窓を通して見ているだけだ。
その様子を眺めていた五人の女性たち……フルフル伯爵夫人ことアドレーヌを初めとした、クロートーの友人たちは驚嘆を込めて嘆息した。
いや、正確に言うならば、クロートーは彼女たちと友人になった覚えはない。
ただ、この身体の持ち主が彼女たちと懇意になっていく過程は知っている。
クロートー……いや、この身体を動かすヒロセカナヲとかいう女は、顔を上げて友人たちに微笑みかける。
「さぁ、点ちましたよ」
カナヲがそう言って器を差し出すと、アドレーヌはきょとんとした表情でそれを受け取った。
あ、と呟いてカナヲが言葉を付け加える。
「点てる、というのはお抹茶独自の言い回しなんですよ。他のお茶だったら『淹れる』と言うのですけど、お抹茶は『お茶を点てる』って言うんです」
「へぇ、そうなんですね。でも、どうしてかしら?」
一瞬、ほんの一瞬だけカナヲ固まった。
しかし、そのよく動く口はすぐに次の言葉を発する。
「お抹茶発祥の地はね、理屈よりも情緒や感覚を大事にする土地柄なんです。ほら、お湯を注ぐ前、粉末状のお抹茶を器の中央に盛りましたよね? あれが点に見えることから、点てるという表現が用いられるようになったんです。ふふふ、何だか面白いですよね」
「ああ、なるほど! そういうことなんですね」
「確かに点みたいに見えますものね」
カナヲのそれらしい説明を聞いて、アドレーヌたちは合点がいったように頷く。
あ、また適当なこと言ってるな……と、クロートーは胸中で呟いた。
カナヲの考えていることは、何となく伝わってくるのだ。
物言えぬクロートーなど誰一人気付きもしないまま、今のこの身体の持ち主と友人たちは親交を深めていく。
この身体の主導権があったとしても、自分には到底真似できぬ交流術に、クロートーは舌を巻くしかない。
カナヲは一人ずつ順番に茶を点てていき、やがて全員に渡った。
「……綺麗な緑色ですね」
「ええ、本当に。こんなの見たことないわ」
その声音には、驚嘆の他に若干の恐れも含まれている。
自分の知識、記憶にないものを口にするのは抵抗があるらしい。
初めに器に口を付けたのは、やはりと言うべきか、クロートーの……いや、カナヲの一番の親友であるアドレーヌだった。
意を決した様子で器を傾け、小さく喉を鳴らして嚥下する。
何度か目を瞬かせた後、大きく見開いた。
「美味しい!?」
「ああ、良かった。お抹茶を点てるのは久しぶりで、ちょっと心配だったから予め予習しておいたのよ」
久しぶりというか、殆ど点てたことないでしょうが。
クロートーはそう突っ込んでやりたかった。
クロートーとカナヲとは、身体だけではなく、記憶も共有している。
「苦そうな色味だと思ったのですけど、飲んでみたら意外と甘いんですね」
「ええ、苦味を楽しむという頂き方もあるのだけど、皆さん抹茶は初めてですからね。お砂糖を混ぜて、飲みやすくしました」
カナヲの言葉に、大袈裟と思える歓声が上がる。
一連のやりとりに勇気付けられたようで、他の者たちもアドレーヌに倣って器を傾ける。
皆、一様に「美味しい!」「飲みやすい!」「こんなの初めて!」という反応を見せた。
「さすがはクロートー様、とても聡明でいらっしゃいます」
「型にはまらない楽しみ方を思い付くなんて、凄いです」
「それに、ワビ、サビ……? でしたっけ? 新しい文化も新鮮で素敵です」
そう言いながら、部屋の内装に視線を巡らせるのは、長くアドレーヌの腰巾着を務めている女性だ。
クロートーはその名前までは覚えていない。というか、辛うじてアドレーヌは認識しているが、その他は顔と名前が全く一致しない。
クロートーは、昔から人の顔と名前を覚えるのが大の苦手である。
そんなことでどうする、と父に怒られた記憶が蘇り、胸がちくりと痛んだ。
ここはパルフェン公爵、つまりクロートーの夫アルベルト=フォン=パルフェンの屋敷の客間の一つだが、この数日で随分と趣向が変わってしまった。
元は黄色と生成り色を主体にしたかわいらしい雰囲気だった部屋は、今は生成り色はそのままに、薄緑色や薄茶色を多分に取り入れることで落ち着いた……あるいは、地味な部屋になった。
招かれた友人も、最初はクロートーと同じ感想を抱いたようだ。困惑気味な彼女たちに、この身体の主は「わびさびと呼ばれる美意識を取り入れました」と説明した。
アドレーヌを筆頭とした五人は、今やパルフェン公爵夫人親衛隊である。
改めてこの状況に疑問を覚えたクロートーは、何とか身体の主導権を取り戻そうと抗うが、指一本さえ自分の意思では動いてくれない。
この一ヶ月で何度も試みたものの、やはり今回も失敗に終わってしまう。
いったいぜんたい、どうしてこんなことになってしまったのか。
クロートーは嘆息して……いや、身体を動かせないのだから、あくまで気持ちの問題だが……一ヶ月前の朝へと思いを馳せる。
目が醒めた時、強烈な違和感があった。
すぐに、身体が全く動かないことに気付いた。
金縛り、というどこかで聞いた現象が脳裏を過ったが、それにしてもどこか妙だ。
改めて自分の身体に意識を向けると、驚いたことにまだ眠っていた。
動かないのではなく、まだ夢の中なのだ。
その証拠に、規則正しい寝息を立てている。
どういうこと?
クロートーは自問自答したが、当然ながら答えは見つからない。
暫くしてから、更に驚くべきことが起きた。
「んぅ~ん……」
クロートーの口から気怠げな声が漏れた。
しかし、クロートー自身は言葉を発した覚えはない。
もぞもぞと半身を起こし、何の恥じらいもなく大きな欠伸をして伸びをする。
「ふわぁ~……あー、久しぶりによく寝たぁ。昨日、飲みすぎちゃったかなぁ。あー、何かだりーわー」
クロートーの身体が、クロートーでは絶対に有り得ない言葉遣いで喋り、腹部の辺りを掻こうと手を伸ばす。
次の瞬間、ぎょっとしたように視線を落とした。
「げっ! あたし、なんでこんなフリフリの着てんの!? こんなの持ってないし!」
ネグリジェがよほど珍しいのか、柔らかな布地を強く引っ張って狼狽を露わにする。
それから、弾かれたように顔を上げた。
「ってゆーか、ここどこ!? どこの高級ホテルですか!? うっそ、まさかあたし、こんなとこに泊まっちゃった……? うわー、マジで? どうしよ、一泊いくらすんのかな。あ、そうだ、とりあえずケータイ……」
彼女が発する言葉の意味は理解できないものの、その困惑は伝わってきた。
床に降りた時、「ん?」と呟いて眉根を寄せる。
彼女はまず自分の両手を見て、大きく目を見開いた。
「え? え? 何これ? ってか、誰? え?」
手というのは、この人の個性が反映されやすい部位だ。
彼女は戦いた様子で部屋を見回し、姿見を見つけるとそちらに駆け寄った。
室内で走ってはいけないないのに、とクロートーは考えてしまった。
そんなクロートーの心情などお構いなしに、鏡に映った顔は驚きのあまり、目を極限まで見開いている。
目だけではなく、口も信じられないぐらいに大きく開いており、自分の顔だと思えない斬新な表情だ。
(あまりお上品とは言えないけれど……)
内心でそう呟くと共に、気恥ずかしさを覚える。
そして、数拍後。
「えぇ~!?」
クロートーであってクロートーではない何者かの絶叫が、瀟洒な寝室に木霊した。