2 冗談のような記憶喪失
まさかの一年半近くぶりの更新。
どの程度読切版に忠実に書くかどうかでずいぶん悩んだ末の難産でした。
エピソードタイトル変更(2024/05/04)
その男は、近づいてみると顔をすこしばかり上向きにしなければ目が合わない程度には自分よりも幾分上背があり、そして何やら、記憶喪失であるところのおのれではない、かつての自分とも云うべき青年を知っているらしかった。
「リアム」
と、男は親しさを滲ませて誰かの名を呼ぶ。
おのれに呼びかけているのだから、やはり失くした名前であるのかもしれない、とも、なんだか身に覚えがないこともない、ともやはりはっきりと形にならない思いがぐるぐると渦巻く。
ただひとつ、目の前の男はこのおれが記憶喪失であることを知らないという、それだけは確かであった。
「その先にはゴミ山しか無いだろうに、この路地裏になにか用事でもあったのか、リアム。どっちにせよ、あんまり来るようなところじゃあないぜ。お前さんには立派な家ってもんが既にあるんだからな」
明るいところで生きていきたければ足を踏み入れることなかれ、だ。受け売りだけどな。
そんな風に、何やら立て板に水といった調子でまだまだ話し続けようとする男を遮るようにして問いかける。
「悪いんだが」
「……うん?」
「その、リアムというのは……おれのことなのか?」
男は一拍置いて、彼がリアムと呼ぶ青年を上から下までつくづくと眺め、それからじわじわと時間をかけて顔を歪めた。眉間に皺ができただけでも、たしょう人相が悪くなる。
「おい、おい……冗談きついぜ、リアム。お前さんじゃなかったら、この街のいったい何処にそんなガラの悪いリアムなんて男がいるよ」
冗談めかしながらも疑念たっぷりといった口振りだった。記憶喪失を冗談だと思うほど、そんなにかつての自分は目の前の彼にとって信じられないような人間だったのだろうか。
「へえ、おれはガラが悪いのか。今の今まで鏡を見ていないからわからなかったな。どうりでここまでの道程で散々ひとに怯えられたわけだ」
なるほど、とひとり頷く。たしかに路地裏を走り抜けたりはしたが、ここに来るまでにそうまで言われるようなガラの悪い振る舞いをした覚えはないから、おのれはよほど目つきでも悪いのだろう。
しかしまあ、ガラが悪い程度で複数人の破落戸に怯えられるとは考えにくいし、こればっかりは別件な気もする。かつての自分がなにかした可能性が高い。
「は、いや、ちょっと待て……待ってくれ……」
「なんだ」
「……もしかしてお前さん、本気で言ってるのか?」
「本気だ。本気で、自分の名前もわからない程度には記憶喪失だ。それで? おれはリアムなのか?」
「ああ、そうだ。たしかにお前さんはリアムだろう。この街にゃ、お前さん以外の黒髪のアルバはいないんだからな。それにしても、ああ、なんてこった……!」
男は吐き捨てるように、神様、とだけ言ってなにやら祈るような仕草をした。苦々しいとでも形容できるその顔を見るかぎりは、敬虔な信者という訳ではなさそうだった。
「……ところで、名前を聞いてもいいか。悪いが、アンタのことも何も知らないんだ、おれは」
「スェンだ。好きに呼んでくれ」
「じゃ、スェンで。それで?」
「呼び捨てか……」
「悪いか」
おまえが好きに呼べと言ったろうに、とリアムが睨みつけると、その眼差しの強さに思わずといった様子でスェンは口端をいびつに持ち上げた。
「いや、悪いとかそういう話じゃなくてな。ただ、以前のお前さんも呼び捨てだったことを思い出しただけなんだ」
「思い出した、ね。その口ぶりじゃ、スェン、少なくともおまえと以前のおれはそんな頻繁に会うような間柄じゃなかったらしいな」
「あ、ああ。オレぁ行商人でな、そんなにひとところにとどまってる方じゃあねえからよ……しかし、それだけでよくわかったな」
「だっておまえ、おれに怯えているだろう」
「へっ?」
「さっきからおれがなにか言うたびにビクついてる。それに、おまえからは、ここに来るまでに見かけた破落戸たちと同じ音がする。そんなふうに怯えているやつが、その相手であるおれと親しいとは考えにくい」
だろう、とリアムが同意を求めると、スェンは気まずげにあちこちに視線を彷徨わせ、それから仕方なさそうに肯いた。
「そういやお前さん、耳が良いんだったか。調子がいい時に人混みに行くと、気分が悪くなる……とかなんとか前のお前さんがたしか言っとった。そんときゃ、調子がいいのにどういうわけだとは思ったもんだが」
まさかそんなことがバレてるとはな。
そう言って、スェンは肩を落とした。どうやらこれまでずっと、それこそリアムが記憶を失う前からバレていないつもりだったらしい。