1 晴れたそらは青い
加筆しました(2023/10/19)
エピソードタイトルを変更しました(2024/05/04)
ルドヴィギアの町は、グラティアエ王国の端に位置する下町のひとつに数えられよう。
あくまで王都の西に位置する領内とはいえ、国の端に在ることは、場合によっては一歩先は不帰の道となる可能性が常に生活にぴたりと寄り添っている。端であればあるほどそのような恐ろしい場所であるのだから、富貴な町民ほどこぞって中央へ近いところに住み、そうでない者ほど押し出されるようにして国の外周へ近いところに家を築いている。
その国端に接した外周の家々が建ちならび、底抜けな青い空の一方で光が射しきらずに薄暗い、薄らと光があちこちに射し込む路地裏のちょうどいちばん暗いところで、男がひとり、立ち尽くしていた。
男とはいっても、20歳前後の若い青年のようで、青年と呼ぶほうが幾分ただしいだろう。革のジャケットに包まれたその身体はすらりとしながらもどこか厚みがあり、見目に頼りなさは感じられない。
しかし実際のところ、この青年は立ち尽くしていた。途方に暮れて、ひとり呆然としていたのである。
ふっと意識が浮上するような感覚とともに目を開くと、そこには見覚えのない景色が広がっていた──青年は何度目かのため息を吐く。
目覚めたそのときから、周りには誰もいない。どこか遠くの喧騒とすぐ近くの静寂で満ちた薄暗い路地裏に、どうやら棒立ちになっていたようだった。青年が選び得る道は、彼の前後どちらにも続いている。一歩踏み出すと、前後の道はそれぞれ光と暗闇へと別れた。
ぐねぐねとすぐに枝分かれする道をひたすら光が射してくる方へ方へと進みながら、寝ていたのかと思う。同時に、ここはどこだと途方に暮れて、そのうちにまた分かれ道を選びとった。
どんどんと行手にある道は明るさを増していっている。足を運ぶたびに地面を叩く靴底が、トントンと体重の乗った音を縦にばかり空間のある路地裏に響かせた。
(そもそも──おれは誰だ?)
あてもなく歩いているうちに何気なくそんな根源的な疑問が浮かび上がってきたが、自問自答のかたちを取っているはずのそれに、青年はついぞ答えを自らのなかから見出すことはできなかった。なぜだろうと首を傾げて、それからはたと思い至る。
眠っていたらしい一瞬前どころか、どうやらすべての記憶が無かった。気付いたときには生きていた、というのがただしい。
何もない自分だけがこの世界に放り出されている。
青年がさっき確認したところによるとほんとうに着の身着のままであるから、他に言いようがなかった。鞄どころか、財布すらないのだ。こうなってはそれこそ足を動かすくらいしかやることもない。
こんなにも足音が響く空間ならワアと声を上げでもして走り出せばさぞ気持ちがいいのだろうと他人事のように考えながら、走るとまではいかないものの気持ち足を速めた。
道を進めば進むほど、明るさは加速度的に増してゆく。水溜まりでも踏むかのように足先がまるく射し込んだ光に浸かって、慌てて突っ切った。なぜそんなにも焦ったのかということは考えなかった。疑問に思いすらしなかった。
親しみを込め朗らかに声をかけてくる隣人。おのれを見る度になぜか怯えの音をさせる路地裏に屯する破落戸ども。寄ってくる畜生。聞こえすぎる耳。それらの何もかもが気に触り、また何もかもに覚えがない。
混乱したと言うには世界に壁を一枚隔てでもしたかのようにぼんやりとした頭の真ん中に『記憶喪失』という言葉が降って湧く。自分の名前すらも覚束なかった。覚束ないどころか、わからない。音にもならず、口にもできない。
ああ、と呻くように■■は思う。今の自分に果たしてそれが本当かを判じる記憶すら無いが、またたきの間にかつての自分は消え失せてしまったのだろう。魂の名とともに。
そらを仰げば、どうやら集合住宅であるらしい背の高い建物がひしめくようにして道をつくる路地裏のそこは、変わらず青かった。どうやら、晴れたそらは青いものだという固定観念は覚えたままであるらしかった。
ふと、遠いな、と理由のない感慨が青年の胸に落ちる。なにが遠いと思ったのかは、自分のこころであるのに判然としなかった。
「……リアム? リアムじゃないか!」
そんな折りに聞こえてきたその声は、記憶のない自分にも分かるほどまっすぐこちらを向いていた。
灰色の毛をした帽子を被り顔は影になって見えなかったが、路地の先から射し込む光を遮るような、大きなからだをしていることは察せられた。
リアム。
このおとこ曰く、おのれはリアムというらしかった。