4 『名無し』と大使と王太子
「そういえば……、あの、聞いてなかったので私が悪いんですが」
「何かな?」
「大使さんは、大使さんというお名前じゃないですよね? 大使さんという呼び方でいいなら、大使さんでいいんですけど」
「あー……、私が名乗ると少し長くなるんだけど」
言い難そうに彼は紫と青が入り混じった不思議な色の瞳を軽く伏せる。大使さんでいいなら大使さんでもいいのだけれど、さすがに数日も経てば外の景色も似たようなものだなと飽きるもので。
なので、長い話を聞こうかと膝を揃えて話を聞く姿勢になった。
「退屈なので、よければ長い話をしてください」
「そうきたか……」
もしかして、これ以上つっこむな、という意味だったのだろうか。だとしたらはっきりそう言って欲しい。
「まぁいいか。どうせ国に帰ったら分かる事だし……。えぇとね、私たちが今向かっている国はジュレイン王国という国なんだ。私の国だね。で、私は大使としてこの国で名乗ったのは、ウィル・バートンという名前なんだけど、本当はもっと長い名前がある。ウィリアム・ベアトリクス・フォン・ジュレイン。長いから、ウィルでいいよ」
私は知恵も知識も教養も何も無いが、頭の回転が鈍いという訳でも無いので、国の名前が入っている事には気が付いた。が、自分に名前が無いので、名前というものの意味をよく知らない。
「ウィルさんの名前に国の名前が入っているのは、どういう意味ですか?」
「うーん、そうだよねぇ……名前が無いっていうのが本当はもう……すごく前提の話からになるよねぇ」
「そうなります。本で覚えたのは数理論理学と古典理論、あとは有機生物学と統計学、生命倫理学、フォードム教哲学、……他はなんだっけ、派生したもの位で、どこにも名前の意味というのは無かったので」
私は一応指折り学んだ本の分野について数えてみた。その本の、参考文献を辿って行くうちに色々と読むことができたが、実体験としては何一つ身に付かなかったので、あまり意味を成していない気がする。
ウィルさんは軽く目を見開くと、少し前のめりになった。
「君は……それらを、理解できた?」
「覚えることと、理論の結びつきは分かりました。理解とはどこまでを指しますか?」
「……これは、たまげた」
「? 暇だったんです。あの離宮が全てだったものですから」
今度はおもしろそうにしながら、彼はまた困ったように笑う。こういう人間の機微的な表情の曖昧さ、伝達表現は、実物モデルがマリアンしか居なかったのでいまいちわからない。全員、マリアンくらい分かりやすければいいのに。
私のことを好きでも嫌いでもないけれど、いたらありがたくて、時々いじめても誰にも咎められないけれど、敬って接しなければいけない、自分よりも下の、劣った存在。それが、マリアンからみた私。
ウィルさんにとっては、初対面の時から、どこか私を……逆に、上に見るような雰囲気があった。
とはいえ、今は、何から言えばいいのかな、と思っているのは理解できる。何からでもいいかな、会話は、楽しいし。
「君は常識が欠如してる、これは罵りでは無く事実だ。そこは理解している?」
「それは分かります。常識の定義は集合体によって変わりますから、名無しの私が隣国……じゃなかった、ジュレイン王国にいけばジュレイン王国の常識に従って生活すべきだということも」
「そうだね。ジュレイン王国の常識を覚えてもらう。ジュレイン王国の常識の大半は、他国でも常識である場合があるから、他の国に出掛けても困らないよ。もちろん、宗教や戒律、法律で細かな違いがある場合もあるけれど」
「そこは、その時覚えればいいですよね。とりあえずは生活する場所の常識を覚えたいと思います」
「うん、それがいい。それで、これは大半の国で通用する常識に分類される一つなんだけど」
「はい」
「ジュレイン王国で、ジュレインの名を名乗るのは、王族だけなんだ。つまり、私は王族。国の名前を名乗れるのは王族だけというのが大半の国で通用する常識だ」
「なるほど……、では、王族なんですね、ウィルさん」
「うん。それでね、これはジュレイン王国の話なんだけど、男性名・女性名・フォン・ジュレイン、というのは国王陛下の息子に与えられる名前。娘には、女性名・男性名・フォン・ジュレイン。正妻との間に出来た子を嫡子と言う。ここで、また大半の国の常識に戻るんだけど……嫡子の定義は国によって様々だから、追々ね……嫡子は王子や王女と呼ばれる。で、嫡子の中で次の王様に指名されているのが、王太子。で、私は王太子なんだ」
「あぁ……なるほど。次の王様……えぇ?! ウィル……王太子……?」
「そう、人前だとウィリアム王太子殿下、と呼ばれると助かるよ。口うるさい人が多くてね」
そう、どうでもいいように呼称を名乗った人を、私はまじまじと眺めてしまった。
そうこうしているうちに、この国で最後の宿泊場所に着いた。……理解できない常識は何も無かったけれど、謎が残る。
何故彼は、名前を……身分を偽って大使として訪れたのだろう。そして、王太子が私を買った……というのには、何か意味があるのだろうか?
本では参考文献を辿るだけだった私だが、人との会話というのは、こうも疑問を生むものなのか。続きは明日、と言われて、私たちは馬車を降りた。