1 離宮の『名無し姫』
侍女のマリアン、ローザ、使用人のぺリトン。
彼らは私に綺麗な服を着せ、何不自由なく私が想像できる範囲の欲しい物を与え、お世話をしてくれる。
私には無いものが多いので、ここの仕事が楽でいい、と以前言っていた。たぶん、楽で、お金もたくさん貰えるから、私に優しいのだと思う。じゃなかったら、私の着ている服の一着でも売り払った方がよほど儲かる……らしい。全部、マリアンの受け売り。
でも、私には無いものが多い。
まず、名前が無い。私の事は『名無し姫』と呼ばれる。名無し王女、とか。でもやっぱり、姫様、くらいに短くなる。
そして、教養がない。常識もない。マナーも無いし、教育もされていない。
母親もいない。父親はいるけれど、会えない。
あるのは、この一人で住むには広い離宮と、何不自由ない生活と、母親の形見の占い札だけ。
退屈に殺されそう(物理)だった私がたびたび離宮を抜け出したり、離宮の中で暴れまわって怪我をした経験から、私が退屈しないように読み書きと計算は習った。そして、本も与えられた。
知識は、ある。たぶん、暇だから本は沢山読んだ。数字も習ったから、私は16歳だという事も自覚している。
しかしこの離宮にもってこられる本は、私が欲しいと想像できる範囲のものだけで、自分で選べるわけではない。
結局暇を持て余す。勉強は嫌いじゃないけれど、自分が理解した事以上の新しい知識を求めるには、情報が足りないという事も理解できた。
さすがにもう大けがをして騒がせることは無いけれど、離宮は抜け出すし、服を汚さないように木登りするのも得意だ。運動しないと体が重くて何もする気にならないのは、本を与えられてから暫くして気が付いた。
私のお父さんはこの国(名前は知らない)の国王陛下で、お母さんは流れの踊り子だった。戯れに手を付けられて、できたのが私。妊娠した母に陛下が興味を示す筈も無く、かといって踊り子の母に後で騒がれても困る……? らしいので、この離宮で私を生み育てるのを許可して、結局私を生んで亡くなった。
今、私は木に登っている。離宮の端にある大きな背の高い木で、下には灌木が植えられていて、張り出した枝の先が王宮の方にはみ出ている。そのはみ出ている部分に、しがみついているのが、私。
なんでも今日、隣国の大使と使節団が来るとマリアンとローザが噂していたのだ。大使というのも使節団というのもよく分からないが、とにかくお客さん、新しい風だ。
私は一目隣国の人が見たくなったので、木に登って、謁見室へ続く渡り廊下をじっと眺めていた。必ず、あそこを通る筈だ。
私の容姿はオレンジの夕陽色の髪に、濃い灰色の瞳をしている。鏡を見ていると、雲と夕焼けのようで気に入っているが、あんまり濃い色のお洋服は似合わないみたいだ。髪もちゃんと毎朝梳かして結んでくれたりお団子にしてくれたりするので、長く伸ばしている。
今日はポニーテールという頭の高い位置で括ってリボンを結んだ髪型をして、木の枝の上でじっと渡り廊下を見ていた。
そして、大使と使節団がそこを通る。先頭を歩く大使というのは、私より少し年上の、若い人に見えた。
使節団は、色々なお土産を持ってきている。私と同じような名無しのような子は、残念ながらそこにいなかった。
(それもそうか。名無しの私が閉じ込められて暮らしているのに、隣国に来るわけもない)
当たり前の事にやっと気付いて、さぁ降りよう、と思った時に、大使とばっちり目があってしまった。
大使がずんずんとこちらに近付いてくる。木の枝というのは日の光に向かって枝を伸ばして葉を茂らせるので、下から見つかったら丸見えだ。
今日は札をめくって、新しい発見がある、という占い結果だったのに、私が発見されてどうするというのだろう。
「君、名前は?」
「……名無し……」
「そう……、そういう事になったのか……」
「……そういう事?」
「あぁ、いや、気にしないで。えぇと……」
「名無し姫、って呼ばれるわ」
「名無し姫。また、後で」
後でも何も、ここでお別れである。
私は首を傾げながら、紺色の髪に紫と青が入り混じった不思議な瞳の大使という青年を見送って、片手を振った。
彼は振り返って手を振り返すと、そのまま謁見室に吸い込まれていった。