第六話 カッステンの幼馴染 前編
ブルースト港を出発した船が波に揺られつつも少し経過した頃。出航前は雲ひとつない晴天だったのが嘘だったかのように、空の殆どが灰色の雲に覆われていた。
今にも雨が降り始めて来そうなほどに灰色の雲。その雲を見てもなお甲板に残るものは少数であり、大部分の人は船内へと入っていった。
それでも、極一部の甲板に残った者はすぐに晴れることを願うばかり。しかし、現実というものは甘くない。雲はどんどん黒に近づき強い風も吹き始める雨が降るのは時間の問題だった。
そんな中、強風による大時化で、船体が激しく揺れる。
船内で太郎は強烈な吐き気と戦っていた。
「吐きそう。うぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
何度も甲板で吐きそうになりながらも、なんとかこらえる。
「そういえば酔い止めは買えなかったんですか?」
太郎だって船酔いなどしたくはない。おまけにブルーストでまとまったお金も手に入った。そのため、先程船長から酔い止めを買おうとしたのだ。しかし、売り切れていた。
「ああ、在庫切れだったって」
在庫はないかと聞いたが、元々酔い止めの販売は船長の独断で、転売目的で仕入れていたらしい。そのため、在庫が出ないようにあえて需要量よりも若干少なく入荷しているというのだった。
そのため、太郎はただ耐えるしかない。
「あのー。太郎さん? 吐くならちゃんと海に吐いてもらえます?」
酔わないことへの羨望と、つらさを分かってもらえないことへの怒り。そして最近なんかアマラの態度が硬化していることに対する複雑な感情が交じり、顔を顰める。
「この雨の中一番揺れる甲板で吐けと?」
「船内で吐かれたら船内まで湿気ちゃいますね」
「……」
束の間沈黙が訪れたが、直ぐに沈黙は破られることとなる。
「眷属よ、この程度でくたばっていては我が信託を伝導する責務を補佐することは到底及ばん」
太郎たちの近くに来たのは、ステフィーであった。ただでさえ面倒くさいのに、こんな状況で来てほしくなかったと太郎は更に顔を顰める。
「元気そうですね。ステフィーさん」
「ああ、我も揺蕩う船に乗ると邪気に侵される契約を悪魔と交わしてな。何せその契約によって大きな能力を得たのだからな。しかし、先程この船舶の長から邪気を抑える薬物を買ってな」
ステフィーは何が面白いのか笑い始める。ステフィーの行動がよくわからないのはいつものことなので置いておく。問題なのはステフィーの言った係助詞、も? である。少なくとも酔い止めを買えるだけのお金は持っているようだ。太郎は、同行するならお金を要求したほうがいいのではと一瞬疑問に思う。しかし、話しかけるなどしてしまったら、間違いなくステフィーのマシンガントークは止まらず更に面倒くさいことになるのは目に見えているのでやめることにした。
「と、とりあえず中に入りません?」
このままステフィーの側にいてもきっと面倒くさいことになる。そう確信したアマラは、太郎に話しかけた。
「そ、そうしましょう」
太郎は船酔いがひどいが、この船酔いに加えてステフィーの話まで聞かされたら精神が持たないことは明白。それならステフィーと距離を取り吐き気を我慢するほうが何倍もマシ。そう考えた太郎とアマラは、ステフィーが長々と語る中船内へと入った。
「乗客の皆様にお知らせします」
乗客でごった返す船内に入ると、魔法を利用したアナウンスが船内に響く。
「当船は雨風の影響で当初の予定を変更し、東廻り航路でのピールスリンへと向かいます。それに伴い、寄港地はラグーヌーではなく、カッステンを予定しています。ご理解とご協力をお願い申し上げます」
このような予定変更は決して珍しくはないのだろう。放送が終わろうとも、誰一人そのことに関しては言及しなかった。
「カッステン? どこだそこ」
しかし、代わりに話題に上がったのはカッステンという地名だ。船内にいる乗客も、多くがカッステンという地名についての話をしていた。有名ではないのだろう。
船内のあちこちの会話を盗み聞きしたが、結局誰も『カッステン』なる地名を知らなかった。
「カッステン……私も聞いたことありませんね」
「名の知られていない土地とはいえ、そこには我の信託を待ち望む者は大勢いる。先に行くか後で行くかの違いだ。きっとこれは神からの祝福なのだ。カッステンにて信託を伝えるべしという神からのお告げ。我は神からの試練をぜひ受けようではないか!」
乗客のうち誰一人として知らないカッステンという土地。乗客の一人が船員に聞いたものの知らないと言われたようで、知っているのは船長ほぼ一人で間違いなかった。
しかし、肝心の船長は鍵のかかった船長室で寝ていたため聞くことは叶わず。
カッステン行きのアナウンスが告げられて数時間が経ち、すっかり雲は無くなり太陽が茜色に変わり地平線に沈もうとしている時にアナウンスが流れた。
「まもなくカッステンに到着致します。お降りの際は添乗員に声掛けをお願い申し上げます」
時化はだいぶ収まっていたため太郎は難なく甲板に出ると、そこに見えたのは山と山の間に開けた平地にある小さな港町だった。ピールスリンやラグーヌーと比べるとかなり小さく、高層建築物もない。港は大きいが、ラグーヌーの様なカジノも無い。どうしても見劣りしてしまう街である。
「取り敢えず、ここで夕食としようか」
「はい。そうしましょう」
夕食は食堂で取れる。しかし、船内では競合店が無いため、相場より遥かに高く設定してあるのだ。ピールスリン公営ギルドが運営しているのだから、仕方がないと言えば仕方がない。そのため、寄港する際は安価な食事を求めて乗客の殆どが立ち寄る。
「勿論、我が眷属の奢りであるな?」
「勿論、お会計はあなたとは別ですよ?」
「なぜだ!?」
カッステン港に付くと、太郎たちは添乗員に声掛けをしてカッステンに降り立つ。港はフェリー港としての一面は薄く、漁港や軍港、商港としての一面が強いようだった。おかげで、観光客らしい人は見かけない。埠頭を歩き、街の中心部に辿り着く。
「見事に何もないですね、この街」
歩いて見えてくるのは住宅と、個人商店、幾つかの公共施設。すぐ近くには森や山が見える。
「取り敢えず、食事にしようか」
街の中心部の中にあるファストフード店で適当に食事を済ませ、街を歩く。街中に堂々と田んぼがあるのは田舎特有のものだろう。
「さっき店員さんから聞いたんですけど、ここの国は南北に長く、政治・経済の中心地が北部に固まっているので、南部は開発が遅れ、こんなにも緑が残っているそうです。ここでの暮らしもありかもです」
人間の闇の部分を散々見せられてきたアマラにとって、人間の絶対数が少ないこんな田舎は憧れが強かった。
「うむ、汚濁された空気など我が身体を蝕むのみ。とは言え、叡智を養う為の篇帙を扱う店が遠いのが欠点なり。……ん?」
この厨ニ女騎士の言うことだから、どうせ下らないものかと思った。しかし、彼女が気にかけているのは至極まともなことであった。
彼女が心配しているのは、一人樹の下で悲しそうに屈んで地面に何かを書いている少年だ。見た感じ、8歳くらいである。
面倒事に関わる趣味は無いため太郎は立ち去ろうとするが、ステフィーは少年に近づいていった。
「そこの童。悲しいことでもあったのか?」
少年は顔を上げ、ステフィーを見るもすぐに固まってしまう。無駄に高身長で、どこか言葉の使い方のおかしいステフィーだ。恐怖を感じてしまっても仕方がない。
少年はそっぽを向いた。
「言いたくないか? なら、言わんでいい。名前は言えるか?」
少年は沈黙を置いた後、小声で呟いた。
「クアン・クイリオン」
「取り敢えず、我の信託を聞け、心が落ち着くであろう」
人の不安に漬け込んで信者を獲得するのは新興宗教のお馴染み行為なのは太郎もアマラも知っているため、家畜を見るよりも冷たい視線でステフィーを睨みつけた。
しかし、少年は長い間屈んでいたようで暇なのかステフィーの信託に耳を傾けた。
「私の前前前世の前世の話をしよう。あれは今から53万……いや、1万年と2000年前だったか。まあいい──」
「隣に住む、友達の女の子が……」
信託を遮り、言いかけた途端少年は急に嗚咽する。とてもじゃないが、話せそうにない。その様子を見かねたステフィーが隣に寄り添い、優しく信託を述べ始めると、すぐに泣き止む。そんな少年に足音が近づいてくる。
「クアン! ここにいるの?」
クアンと呼ばれた少年は声の方を一瞥すると、瞳に涙を浮かべて逃げ出してしまった。
「明日の信託は明朝からである! 遅れるでないぞ!」
憤るステフィーを余所目に、太郎は声の方を見る。三十代ぐらいの女性だ。
「うちの息子、クアンが何か失礼なことを?」
「いえいえ、失礼なことをしているのはうちの女騎士ですから。ところで、余所者がこんなこと聞いていいのかわからないですけど、差し支えなければクアン君に何があったのか聞いていいですか?」
仮にもステフィーが話しかけて関わった以上、責任は取るべきだろう。彼女が話し始める。
「クアンには、家が隣同士の幼馴染の女の子が居るんです。小さい頃からずっと遊んでいました。多分、相思相愛でこんなやり取りもありました」
それは、自宅で遊んでいたときのこと。
「クアンくんは、将来何になりたいの?」
「僕? 僕は大きくなったら、立派な弓使いになって色んな場所でモンスターをやっつけるんだ!」
「弓使いになったら、私をお嫁さんにしてね!」
「もちろん!」
よくある幼馴染の関係だ。しかし、年が上がるに連れて脆い赤い糸は解れるものだ。
「ふむ。甘酸っぱい幼馴染の関係だな。一方、我は幼き頃より天啓を賜与され──」
ステフィーが幼馴染と信託を無理やり絡めて話そうと、話を中断させる。
「静かにしてくれます?」
「アッハイ」
アマラの怒りと軽蔑に満ちた冷酷な顔で告げられた言葉に、ステフィーは珍しく引っ込んだ。そして、クアンに信託を聞かせようと向かっていった。母親はまた話し始める。
クアンは一昨日、誕生日だった。そこで、少女を誕生日パーティーに誘ったのだ。しかし、少女は時間になっても来なかった。心配になり、彼は家を飛び出した。
クアンは、少女はどこかに出掛けていると知り怒ってパーティーを強行。しばらくして、少女はクアンの家を訪ねたが、参加を拒否した。
次の日、少女は街中を歩いていたクアンに謝罪を申し入れるも断られてしまう。必死で頼み込むも、耳を貸すことはなく纏わりつく少女を鬱陶しく感じ「嫌いだ」と口にしてしまう。
少女はその言葉に衝撃を受け、虚しく帰ろうと横断歩道を渡ろうとした所、飲酒運転の馬車に轢かれたらしい。鞄の中身が散乱していたらしい。
少女は直ぐに病院に担ぎ込まれた。意識はまだ回復しておらず、少年は轢かれたの自分の責任だとして苦悩しているという。
「学校にも行くようになって、幼馴染の一緒に居ることが恥ずかしいと思えてくるようになったのかな。それで突き放しちゃったけど、やっぱり幼馴染の子が好きなのよ。素直になれなくて」
逃げ出したクアンの方を見るが、無我夢中で逃げ続けるクアンと信託を聞かせようと追い続けるステフィー。ステフィーが事故に遭う分には構わないが、少年が少女の二の舞になってはいけない。二人は近くの森に入っていく。
所々に雲が掛かり、直射日光は一定の間隔を置いて遮られる。この深い森に於いては尚更だった。
クアンは体力が尽きたのか、森の木の陰で倒れ込むように座る。
「しかし、このカッステンと言う街は暑いな、少年よ。しかも、風など全く吹いてない」
ステフィーは直ぐにクアンの元に辿り着く。
「半島の南端にあるからね、雪なんて滅多に振らないんだ、ここ。だから果物の栽培が盛んなんだ」
逃げ切れないと判断したのか、大人しく話をする。
「このような場所じゃ、マフラーや手袋なんて需要ないか、少年」
「売ってるの見たこと無いよ。そんなの」
「見舞いには行ったのか?」
クアンは膝を更に丸め込んだ。
「……だって、今日、この子の誕生日なんだ。全部、僕が悪いんだ。それなのに、合わす顔がないよ」
恐怖に怯え、涙ぐんだ声だ。
その言葉を聞いてステフィーは軽く笑い出す。
森の木々が音を立てて揺れながらこう言った。
「誕生日は二日違いか。そうか、家に戻れ、少年よ。贈り物、あるだろ?」
その後少し経ってから太郎の元にステフィーが戻ってきた。
「あれ? ステフィーさん戻ってきてますね。タローさん」
「ここに野放しにしても、どんな被害が出るかわからないからね」
「婦人よ、少年の幼馴染は何処に?」
「サウジリーフギルド附属カッステン病院です」
「そうか、行くぞ眷属よ」
「私もかしら?」
クアンの母親を強引に仲間にした四人は近くにある病院に向かった。
カッステン最大規模の病院らしいが、やはりピールスリンなどにある超大型病院などと比べると、どうしても設備も何も整っておらず見劣りしてしまう。
部屋に入っても区切られているというわけではなく、数十人が一緒の部屋で暮らしている。
「確かここ……」
クアンの母親が立ち止まった。
眼の前には一人の少女がベッドの上で横たわっていた。頭や、手足を包帯で巻かれている。半開きの瞼から見える瞳は悲観さを物語っている。
「意識が無いと聞きましたが、起きているようですね。安心しました」
安心するアマラをよそに、クアンの母親が少女の元へと急ぎ改めて謝罪する。
「ごめんなさいね、うちの息子が。ところで、お父さんかお母さんは? 来られた?」
事故の影響で声も中々出ないのだろう。太郎たちとは反対側を振り向き、掠れた声でこう言った。
「お父さんとお母さん? わかんない」
仕事などで忙しくて見舞いに来れないというのは理解できるが、なんと非常な親だろうか。そう憤慨する太郎に、後ろから警察官が近づいてくる。
「すみません、その子の母親の連絡先を知っていますか? その子の父親が刺殺されているのを自宅で発見いたしました」
とんでもないことにステフィーは巻き込みやがったと、太郎は衝撃を受ける。絶対に会計を別にしようと太郎は心に決めた。
改定 2022/06/08