第八話 逃亡劇
あらすじ変更しました。カクヨムにも挙げてしまいました!
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自分の持つファイル上では完結済みですが、最終校正等を考えて、大体3日に1話ずつ挙げていきます。
アップの目安は火曜、金曜、日曜を予定しています。全10話前後の予定です。
また、作成時には縦書で記述していたのですが、横書きへの変更に伴い、読みやすさを考慮して、かなり変則的な規則で改行しています。これは今後改める可能性があります。
昨日の拉致暴行は随分と堪えた。まだ痛みが多く残っている。幸いにして、見た目に、痛々しい傷跡などはついていなかった。大が言うように、あの実行犯達は私を傷つけることそのものが目的ではなく、研究を断念させることが目的だったようだ。そのひとつにあの洗脳手法があったのだろう。
痛みがあまりにひどく、午前中は動く気になれなかった。自室のベッドで鎮痛薬を服用しながら、ゆっくりと過ごす午前となった。
いつも決まった時間に外出している為、午前を呆けて過ごすにはいささか罪悪感のようなものがよぎる。その罪悪感を誤魔化すために研究に関する文献を読んでいると、シーツが暑苦しく、汗ばみを感じた。打ち身や打撲傷が熱を持っているのだろう。汗を流すため、シャワーを浴びると、ところどころ沁みる。
目を閉じると昨日の光景が浮かんでくる。人間の悪意を直接浴びるような体験だった。恐ろしい、今までにあれほどの恐怖を感じたことはなかった。シャワーを浴びて、身体が温まっているはずなのに悪寒がする。シャワーによって流されているはずの汗を感じる。鼓動が早くなっている。私はしばらく何もせず呆然と、水に打たれながら思考を止めていた。少し落ち着き、深呼吸をすると拍動もいくぶん楽になったように思う。もう大丈夫だと自分に言い聞かせた。だいぶ落ち着いたようだ。浴室を出て、身体の水気をふき取ると、もう恐怖は薄れていた。しかし、疲労感が激しかった。
「おはようございます、市民の皆さん。朝のニュースです。ヴォイド戦線は、現在落ち着いた状況にあります。イザベラ提督、統和軍艦隊の奮闘により、太陽系内ラインの拮抗状態から人類側の優勢に傾きつつあると報告がありました。エウロパ前線を押し返しつつあるようです。イザベラ提督は、この有利を一気に推し進め、系外へとヴォイドを後退させることで人類の反撃の狼煙を挙げると意気込みを見せています。」
疲れと倦怠感が強く、朝食のような昼食を簡単にとってまた少し休む。現代の医療技術は凄いものだ、痛みも大体1日で引き、食事をとると倦怠感も大幅に薄れた。夕方になる頃には、すっかりと気分は落ち着き、外出する気力が湧いてきた。
今日はもう、研究論文を進めるのには遅い時間だが、研究室に赴き、実験機器の様子も確認したかった。何よりもそれを口実に外に出ることで、瑠奈に会えるかもしれないという期待もあった。あのようなことがあった後だ、外出そのものに少し嫌悪感を感じるが、それを上回る期待だったのだろう。
自宅から外に出ると、もう日は暮れようとしていた。今が戦時ということは忘れそうなほど、夕日が美しく、世界を赤く包んでいた。おそらく、昨日のひどい体験と解放された今の感覚の対比で、夕日が余計に美しく見えるのだろう。もしくは、瑠奈に会えるかもという期待感が私にこれを感じさせるのかもしれない。人間の脳とは、同じものを見ても、時と状況によって大幅に感情を変化させるものだ。
身体が、まだ思うように機敏には動かない。ゆっくりとした歩調で、自宅から公園へと向かう。公園に着くころには、日が暮れ、帰宅ラッシュの時間も終わっていた。街の中にありながら、公園は静寂さを纏い、少し肌寒い空気が漂っていた。街灯の明かりは夜の雰囲気とあいまって、少し幻想的にも感じる。
いつものベンチにたどり着く。
「修司君、来てくれたんですね。」
心なしか、瑠奈はいつもの元気が感じられない。私に会って、彼女は目を細めており、どこか悲しそうな印象を受ける。表情の変化が弱く、彼女の気持ちが読み取れない。
「瑠奈さん、すみません。昨日、少し立て込んでしまって。今日もそれの影響でこんな遅くになってしまったんです。」
そう自分で言いながら、昨日の恐怖が私に少し蘇る。この公園には良い思い出と悪い思い出が混在している。ついつい、昨日の今日で身体に力が入り強張ってしまう。このタイミングで瑠奈に出会えたことは喜ぶべきことだが、もしかして彼女も昨日の事件に関与していたのではないかと僅かに疑問が浮かんだ。
だが、私はすぐにその考えを打ち消す。私の感情は、彼女に対して、悪くない評価の方向にしか働いてくれないようだった。
「来てくれて嬉しいです。……今日はお願いがあります。」
その声は弱々しかった。……だが、お願い?
瑠奈は口をつぐんだ。言いかけては思い直し、口をつぐむ。これを数度繰り返した。
「何でしょう?自分にできることであれば、何でも言ってください。同盟の仲じゃないですか。」
瑠奈はいつの間にか、涙ぐんでおり、少し嗚咽が漏れていた。その後、私に向き直って、真剣な表情で言う。
「実は、一緒に逃げてほしいんです。お仕事が嫌になってしまって……。一人ではとても怖くて不安で、でも修司君と一緒なら……。」
予想外の言葉だった。
私は瑠奈のこの言葉を聞いて、瞬時に様々な考えが巡る。
なぜ逃げたいのか、逃げるとはこの社会から?
この社会から逃げられるものなのか?
逃げるにしてもいったいどこに?
父や友人に迷惑がかからないだろうか?
軍属者の任務放棄はプロメテウスからの評価を大きく下げる。それを幇助すると、私も同様の扱いを受けるだろう。何よりも昨日の今日で、もう軽率な行動を取らないと反省したばかりだ。
社会からの逃亡は、あまり良い結果を生まない、リスクばかり考えてしまう。どうして、どうやってなど、多くの事が頭の中を駆け巡るが、思考がまとまらない。
そのような時だが、先日の瑠奈との動物園でのデートを、私は思い出した。
現在の動物園では、多種多様な動物が展示されている。それは、長い進化の歴史から産み落とされた自然の生物だけではなかった。遺伝子工学、分子生物学、生体工学、様々な学問知識、技術が組み合わされ、神秘の生物を作り出していた。
例えば、ユニコーン、古代ギリシャで信じられていた伝説上の生物、一本の角を持ち、獅子の尾を持つという白馬。フランス人の小説家のフローベールによる『セントアントワーヌの誘惑』で描かれていたこともある生物。現在では、他にも、こうした神話上の生物なども動物園に等しく展示されている。
実際には、既存の生物の部品の掛け合わせに過ぎないのだが、これが大きく反響を呼んだこともあった。もちろん、これも共感派の反感を大きく買ったわけではあったが、経済的利益からか、展示している動物園は今も多くある。
瑠奈は、主に自然に産まれた生物の、のんびりした姿に癒しや喜びを見出していたことが印象的だったが、ユニコーンの飼育場を通る際に、喜んでいるような、悲しんでいるような、そして少し哀れみを持ったような表情をして、眺めていた。
「自然に生まれたわけではなく、人工的に生みだされた後も、人間達の見世物として、ここで飼育されるというのも少し可哀想な気がしますね。」
瑠奈は柵に近づき、柵に腕を乗せて、一角の白馬を眺めている。私からは、瑠奈の後ろ姿しか見えないが、その声は、私に何かを伝えたがっているような響きである気がした。
その意図は、私にはわからないが、真剣な様子の彼女に私ができることは、彼女の言葉を真面目に聞き、自分の考えを述べることだった。
「確かに、自由がなくて、人間の飼育下というのは可哀想ですね。……でも、僕はユニコーンの美しさが好きです。人工物であっても、自然物であっても、生物は生物ですし、美しいものは美しいと思います。……あの一角恰好良くないですか?」
瑠奈は返事をすぐにはしなかった。ユニコーンに見入っていたのだろうか。柵にしがみつくように、少し身体を丸めていた。暫く相していたかと思うと、こちらに向き直って、口を開いた。
「そうですよね。あんなに綺麗な動物ですもんね。多くの人が望んで生まれてきたのなら、いいのかな?」
振り返った時、瑠奈は笑っていた。いつもの向日葵の笑顔だったが、目が潤んでいるような気がした。私はいつもであれば、彼女にそのことを心配し、尋ねるところだが、今はその笑顔と潤みを帯びた瞳の眩さに圧倒された。
彼女を抱き締めたかった。
しかし、客観的に自分を見て、自分は彼女にそのようなことができる人間だろうか。ただ、少し親しくなっただけの間柄だ。もともとこのようなことを得手としていないのだ。
彼女も何かもの言いたげな表情ではあったが、私が逡巡していると、額に水滴を感じた。雨が降ってきていた。
「雨が降ってきたかな?」
「そうですか?」
そんなやり取りをしていると、急に大粒の雨が多量に降ってくる。夕立だ。
「うわ、さっきの休憩所に戻りましょう。」
私はそう言い、咄嗟に瑠奈の手を引く。瑠奈は少し驚いたようだったが、その握った手を拒絶することはなかった。雨が降ってきた事で、駆ける為だったが、雨宿り先の休憩所でも、結果として手を繋ぐような形になったままでいた。屋根がついているものの、簡素な造りの休憩所では、自販機がある程度で、私達以外に他に人はいなかった。
横を向くと、雨で衣服が濡れた瑠奈がいる。衣服が身体に張り付き、その曲線が強調されている。私は、そのような自分の視線を恥じ、正面を向く。幸い瑠奈は、靴の浸水を気にしており、私の視線に気づいていないようだった。自分の心臓が強く鼓動している。
「あの……、そろそろ手を放してもいいですか?靴に水が溜まってしまって、脱ぎたくて……。」
「あっ、ごめんなさい。つい咄嗟に。」
「ふふっ、急な雨でしたね。」
瑠奈はニコッと笑い、ありがとうございますと付け加えた。
思えば、私はこの頃から瑠奈のことを好きになっていたのかもしれない。この女性を笑わせていたいと思っていた。
そして今、確かに、ここで、瑠奈と共に逃亡を選べば、私は研究の完遂を果たせないかもしれない。
好いた女性か、自分の職務か。
いや、……何を迷うことがあるのだろうか。
瑠奈の苦しみを思えば、迷うこともない。研究は、私の人生の目的だが、今の生活を失っても、何年後でも、どこででも続けられる。運命や偶然などはない。私の意志でこれからの未来を作っていけばいい。
母の死、そのことに理由があると考えたような私ではあるが、何よりも、もう二度と大切な人を失うわけにはいかない。そして、動物園で感じたあの気持ち、この人を笑わせていたいと思ったこと、この人の苦しみを少しでも和らげたいと思う。それを果たせる機会が、私に、今ここに、あるのだ。
「わかりました。一緒に逃げましょう。」
「……っ。」
瑠奈は、その丸い瞳に涙を溜めながら驚き、顔を背け俯いた。声には出さないが、涙が溢れだしたのだろうか、両手で顔を覆っている。そのあと俯いたまま、ゆっくりと私に近づき、私のシャツの端を軽くつまんだ。
「……有難うございます。」
私は逡巡の末出した結論ではあったが、社会に背く決断に自分自身驚いていた。だが、納得もしていた。私はこの時、自身の気持ちをはっきりと自覚していたのだ。
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このときの私は、瑠奈を心から愛していた
出会ってからの期間などは問題ではなかったのだ。
共に居る時間が本当に心地よく、今までに経験したことのない輝きだった。
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「逃げる先の宛てはありますか?」
瑠奈に尋ねるも、涙がまだ止まらないのか、俯いたまま首を振る。瑠奈は涙声で言葉を続けた。
「すみません、先のことを何も考えずに……。」
「いえいえ、誰でも全部嫌になってしまうことってありますよね。」
そうなのだ、時に人間は全てを放棄したい気持ちに囚われることがある。その気持ちを処理することは、自分ひとりでは長い時間を要するが、自分を肯定してくれる誰かが傍にいることで容易に救われるのだ。
プロメテウスは馬鹿じゃない、高度な知能を持つ存在だ。社会システム維持の効率性の面から考えても、こうした人間の不安定な気持ちを汲み取って、我々に不利の少ない判断を下すかもしれない。
「そうだ、僕に考えがあります。」
そう言って、私は大に連絡を取る。困ったときに、あの友人たちなら助けてくれる。そう思った。
だが、貴彦の場合、軍人という立場上、逃亡者を手助けするのは難しいだろう。
「どうした修司。」
時間が時間だからか、診療時間が終わっていたのか、大にはすぐに連絡がついた。私が事情を説明すると、唸り始め、大がしばらく考え込んでいる様子が通話からも伝わってくる。そして、声を低くして真剣な口調で言う。
「お前も難儀なやつだな。……まあ、事情はわかった。しかし、お前が思う以上に事は困難だぞ。」
「俺もそう思う。だが、もう決めたことだ。すまん、お前に迷惑をかけるかもしれないが、助けてくれ。」
それでも大はしばらく押し黙っていたが、数秒後には通話口の先で心が決まったのか。すぐに、言葉を発した。
「わかった。俺は今診療所で寝泊まりすることがほとんどで、自宅はあまり使っていないんだ。だから、俺の自宅を使え。郊外の森の近くで、周囲の目もあまり気にならないし、俺の登録になっているから、プロメテウスの目も誤魔化しやすいと思う。」
ここまで大は話して、また何かを考えている様子で、少しの間黙ってから、再び口を開いた。通話口の後ろの人間とやり取りをしている様子もあった。
「あとな、足だが、今から俺がお前らを送り迎えしてやる。公園はプライバシーとかの関係でプロメテウスの監視もほとんどないはずだ。俺の車に乗って隠れてれば、俺が自宅に何かを取りに帰った程度にしか見えないだろう。」
必要なものを素早く考え、手際よく準備をするその手腕。大が若くして、プロメテウスに認められ、診療所を任されるのもよくわかる。
「有難う。恩に着る。」
そう伝えて通話を切る。持つべきものは友だ。貴彦にもよく助けられたが、大も本当に頼もしい。
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友は、本当に困った時にその本質がわかるという。
友情とは、時に諫め、時に励まし、助け合う関係だ。
これを今まさに実感する。彼らは私にはもったいないぐらいの良き友だ。
私は彼らにとって本当に友足りうる人物だっただろうか。
彼らに十分なものを返せていたのだろうか。
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30分ほどだろうか、大が到着するのを待つ間、私はどうしたものかと考えあぐねていた。瑠奈に話しかけても、瑠奈は泣いていて言葉にならないようだ。しょうがなく、ベンチに座るように促す。瑠奈は押し黙ったままだった。
落ち着くためにも飲み物でも買うべきかと考え、自動販売機に向かおうとするが、私のシャツを掴んだまま離してくれない瑠奈のことが気になってしまう。瑠奈をこのような行動に走らせたものが、何かはわからないが、これほどまでに追い込まれているのだ。私がこの場を少しでも離れることで、泡のように消えてしまうのではないかと寓話のような不安が頭をよぎる。
周囲に人の姿はない。昨日の事件以来、私は周囲を細かく観察するように意識していた。差し迫った危険はなさそうだ。仕方なく私も瑠奈の横に座り、私のシャツの裾を掴む瑠奈の手を握り返して、瑠奈が落ち着くのを待った。10分ほど、そうしていると、瑠奈は少し顔を上げ、静かに少しずつ話始めた。
「お気づきかと思いますが、私は軍人です。」
出会ったばかりの頃の挨拶の時のことを私は良く覚えていた。今更驚くべきことでもなかった。私は相槌を打ち、瑠奈が話しやすいように、言葉を挟まない。
「ごめんなさい、巻き込んでしまって。軍人の逃亡なんて……。修司君もひょっとしたらプロメテウスから制裁を受けるかもしれないのに。」
「いやいいんです。自分の判断で決めました。」
「すみません、有難うございます……。」
また、涙が溢れてきたようだった。瑠奈は、私の肩に顔を埋め、泣いている様子だった。
そうしていると、近くに車が止まる音がする。あれは大の自慢のカスタムを施したジープだ。車のドアが開き、二人の人間がこちらに向けて足早に歩いてくる。大と圭子だった。
「修司、来たぞ。その人が八巻さんか。」
瑠奈は大が来る少し前には、強引に自分の涙を拭い、服装の乱れを直し、身だしなみを整えたかと思うと、私から離れ、すくっとベンチの前に立っていた。まだ目は赤かった。
「初めまして、八巻瑠奈といいます。すみません、私の我儘に巻き込んでしまって。」
瑠奈はそう言い、大と圭子に対して深々と頭を下げた。
「いえ、修司の頼みですから。気になさらないでください。」
大も私に向けていた顔を、瑠奈にしっかりと向き直って言う。
「ところで、なんで圭子が?」
私は疑問に思っていたことを聞く。圭子への協力の要請も勿論頭にはあったが、教授のように、女性であることの苦労というものがあると知った経験から、女性に頼るのは少し気が引けた。
「圭子にも協力を頼んだ。勝手なことをしてすまん。女性が逃げるとなると、色々と不都合も多いからな、着替えなんかも必要になるから、それを圭子に頼んだ。」
「私にも声をかけてよ、水臭い。」
圭子はそう言うと、ちょっと来てくださいと、瑠奈を連れて車の方に誘導した。女性同士の話があるのだろうか、私もついていこうとすると圭子に制止された。それを見て圭子は攫うわけじゃないと言い、大は少し笑いながら、こっちはこっちで話すことがあると、私を引き留めた。
「修司、俺の家をいくらでも使ってくれて構わない。ただ、ずっとプロメテウスの目を誤魔化すことができるわけじゃない。その後をどうするか考えているのか。」
「いや……、正直アテはない。はっきり言って行き当たりばったりだ。」
「お前なあ……。でも、まあお前らしいか。真面目な研究者のくせに、突然、衝動的に行動を起こしやがる。」
あきれ顔だったが、大は少し笑っていた。大は口が悪く率直だが、誠実だ。貴彦はお調子者だが抜け目がない、私は慎重だが、感情で動いてしまうところがあった。こういう二面性を持った者同士だから、馬が合ったのかもしれない。カレッジでは我々のまとめ役だった圭子はさぞかし苦労したことだろう。
いかにも感情的で後先顧みない決断だったが、私が先ほど瑠奈に伝えたように、自分の決めたことなので、このような大事となったものの後悔はなかった。
「後悔はないよ。この自分の性格も嫌いじゃない。」
私の自惚れた発言を聞き、大がにやっと笑う。
「俺も嫌いじゃないぜ、お前の性格。」
大も照れくさいことを言う。この率直さがこいつなのだ。照れ隠しに、私が大げさに笑うと、大も大口を開けて笑った。夜の公園で笑う二人の大の大人、通行人がいればさぞかし不審な光景だっただろう。
二人して笑っていると、女性陣が戻ってくる。
「色んなサイズの服を持ってきてよかった。私の普段着だと少し大きかったけど、古いものなら着れたよ。家に取りに戻る必要もなさそう。あと化粧品やらもちゃんと荷物に入れといたから。」
「そうか、ありがとう圭子。突然声かけて悪いな。」
大が私の代わりに礼を述べた。
「いいよ、修司君の頼みだからね。」
「すまん、有難う圭子。」
「よし、行こう。ここで留まっているのも人目に付く。」
大はそう言って、ジープへと向かう。瑠奈の方に目を向けると、私と目が合った。瑠奈は申し訳なさそうな顔だったが、私と目が合った途端、ほっとしたような嬉しそうな顔を見せた。
私は助手席に座り、瑠奈と圭子が後部座席へと座る。夜の道に車を走らせると、大は運転に集中して特に話さなかった。後部座席に座る女性陣は、お互いのことを話し合って、よく打ち解けている様子だった。
私はというと自分の事含め、自分の周囲の人間への影響を考えていた。これから私たちがどうするか、父や教授はどうなるか、私の研究をどうするかなどの考えが頭の中をめぐっていた。結論はでなかったが、今の自分の置かれた状況を整理する時間が取れたのはよかった。
ひとつ懸念が浮き上がる。
あの昨日の拉致事件、私の研究が原因だとしても、あそこまですぐに行動に移されたことが不可解だった。つまり、私はあれ以前に既に監視されていたのだろうか。しかも、プロメテウスによる監視ではなく、人間による監視だ。その原因は思いつかないが、今も監視されているとすれば、今後の逃亡は危険極まりない。今まで以上に、警戒して動く必要がある。
考えを整理していると、もう郊外の大の自宅に到着していた。大きな家ではないが、良い立地にあった。家の後ろには大きな森があり、周囲には他の住宅はなく、静かな場所だった。
大と圭子は車から降りず、私たちに鍵を渡し、荷物を積み下ろすと、別れの挨拶を告げる。
「修司、俺が協力できるのはここまでだ。あとはお前がうまくやれ。無事を祈る。」
「修司君、これは貸しだからね。後で返してもらうよ。」
圭子も恩着せがましいような調子の言い方ではなく、車の窓から顔だけ出して、手をひらひらと舞わせながら言う。
「ああ、本当に有難う二人とも。恩に着る。後で何を請求されるか怖いけど、本当に助かった。」
この仲間の間柄だと、ついつい冗談を挟んでしまうが、二人には本当に感謝していた。
「八巻さんも、どういう事情かはわかりませんが、修司をよろしくお願いします。」
「私からも、お願いします。」
「お二人とも本当に有難うございました。初対面の私にここまでしてくださって。」
瑠奈は腰を90度に曲げ、再度深々と二人に頭を下げる。瑠奈と私は二人が去るのを見送ると、家に入り、部屋の電気をつける。
「良いお友達ですね。羨ましいです。」
「はい、いいやつらですよ。カレッジでは、やつらによく助けられました。」
「修司君も凄く信頼されてますね。修司君の頼みならって、私のような得体の知れない人間に対してもここまでしてくれて。」
「僕なんて大したことないですよ。彼らが……、特別いいやつらなんだと思います。運良く彼らと仲良くなれたのが僕の幸運でした。」
「ふふっ、謙遜するんですね。」
その笑みは弱かったが、瑠奈らしさが戻っていた。目には僅かに涙の跡があり、目は少し赤らんでいたが、先ほどまでの弱々しい様子から、少し落ち着いたようだった。私はその様子に安心し、立ち上がって台所に向かう。
「飲み物なにか用意しますね。水がいいですか?他にも、お茶、コーヒー、紅茶、アルコール等々あるようです。」
飲み物にもこだわりのある大らしい用意だった。バーでも開店できそうなほどの量がある。台所の一つの棚を丸々、茶葉やカクテルの材料で埋められている。
「そうですね……。少し甘いお酒が飲みたい気分です。」
私は冷蔵庫を開けると、カルーアミルクを見つけた。瑠奈のアイスクリームの好みからすると、これは好きそうだ。
「カルーアミルクがあります。これはどうですか?」
「有難うございます。お願いします。」
お互い飲み物を飲みながら、ソファに座り一息つく。何となく、私から話しかける雰囲気ではない気がしたので、私は飲み物を味わいながら、これからのことを考えていた。すると、瑠奈はカップを両手で握りながら、床を見つめており、少しずつ自分の事情を話し始めた。
「自分の任務が嫌になったんです。」
「確か……、研究助手と言ってましたよね。」
「はい、研究助手のようなものとお伝えしましたが、正確には私は複素次元戦闘機のパイロットなんです。」
パイロットか……、複素次元戦闘機に関しては、高度な軍事機密となっている。 だから、明らかにできなかったのか。
「主に新型試作機の動作テストや試験飛行を主な任務としています。」
『複素次元戦闘機』
人類がヴォイドに対抗する為に、ヒトの種の存続を掛けて造り上げた決戦兵器であり、究極の兵器。
ヴォイドは通常、虚次元と実次元を行き来しながら、活動を行う。ゆえに、ヴォイドに有効打を与えようとすると、ヴォイドと同じ土俵に立って戦う必要があった。これを可能にしたのが、複数の次元を行き来することができる複素次元戦闘機だった。
人類の滅びの危機を何度も救い、多くのエースを生み出してきた。その技術は人類の全てが詰まっていると言っても過言ではない。極めて厳重にその詳細は伏されており、機構に関してのブラックボックスがとても多い。非人道的な技術も多用されているとの噂もある。だが、この戦闘機がなければ人類は、これほどヴォイドと戦えていなかった。
大衆はこの戦闘機の存在に憧れ、熱狂し、パイロットに志願する。パイロットは厳しい訓練の果て、複素次元戦闘機に搭乗することを許されるのだ。人類の希望であった。
しかし、この戦闘機の搭乗者に関してもあまり公表されていない。本来は戦意高揚のために、プロパガンダに利用されそうなものだというのに。
瑠奈の語った事実は、私にとって本当に意外なものだった。新型の開発には父が大きく関わっているはずだ。父は瑠奈の存在を知らないと言っていたが、部署や所属が異なるのだろうか、もしくは機密保持の為、嘘をついていたのだろうか。そんな私の考えを他所に、瑠奈は話を続ける。
「戦況が悪化するにつれ、より危険度の高いフォースやウェーヴを搭載した戦闘機の開発が進みました。ヴォイドが地球に近づくにつれ、試作機の完成を待つ余裕も徐々になくなってきています。つまり、未完成で危険度の高い戦闘機に搭乗する機会が多くなりました。研究開発に携わる研究者、職員達も、自分自身が危険に曝されることはわかっているのに、その流れは止められないようでした。」
何かを思い出したのか、瑠奈は自分の身体を自分で抱くようにして、左右の肘を手のひらで包み込む。身を震わせながら、ソファの上で小さくなっていた。暫くそうしたかと思うと、苦しげだが、真剣な表情で顔を上げて言う。
「私は、周囲が狂気に満ちていくようで、前線に立つのが怖くなったんです。」
「もちろん、地球の人たちを守る任務が嫌なわけではありません。ただ、怖くて……。」
プロメテウスに適性を判断され、「勇気」の遺伝子を持つ人間が軍人として選ばれる。だが、勇気も無尽蔵ではない。適切な環境と、適切な動機があって勇気は十分に発揮されるものだ。恐怖を感じない人間など、人間どころか生物足りえるかすら怪しい。自己保存は、生物にとって何よりも優先される。人間は理性でもって、恐怖を制御し、勇気を発揮し、自分と他者を守るのだ。周囲が狂気に満ちている状況では同じように狂気に蝕まれるか、恐怖に圧し潰されることは十分に理解できた。
戦闘機の話を聞くにつれ、このヴォイド戦争において、私には以前から疑問に思っていたことがあった。現在のAIの性能ならば、人間よりもはるかに判断力が早く、人間では耐えられないような圧力、変則的な機動であっても、耐えられる機械を戦闘に出せばいいと思っていた。これで人的被害はかなり抑えられるはずだ。
パイロットを育てるには、高性能AIを積むよりもよほど費用と手間暇がかかると聞いている。何よりも、AIには「勇気」も「恐怖」もない。
「以前から、不思議に思っていたのですが、今の科学力なら、有人戦闘機よりも、AIを積んだ無人戦闘機の方が有効に思うのですが、なぜ使われないのですか。それならばパイロットが危険にさらされることもないのではありませんか。」
「それは……、AIではヴォイドの侵食に少しの抵抗もできないからです。AIがヴォイドと遭遇すると、瞬時に侵食融合されると聞いています。」
瑠奈はそう言って、私に背を見せてから、後頭部の髪をかき上げた。後頭部の、脊椎骨と頭蓋骨のつなぎ目とでもいうのだろうか、小脳の位置する部分に、電子機器を接続するような端子の接続口のようなものが見える。
「パイロットは生体コンピュータとしての役割を持ちます。この接続口から、機体に接続して、全身の電気信号を読み取ります。」
瑠奈の美しく健康的な頭髪と、艶めかしいうなじとの間に光る円形の金属部品。生物的な曲線美と機械的な幾何構造の対比が際立っていた。この戦争において、人間はもはや兵器の部品なのだ。社会に組み込まれた歯車とか、そういうレベルじゃない。私は瑠奈のその姿を見て、息を飲む。何も言うことができない。
「……。」
「仕方のないことだと思っています。戦争ですから。」
私の心情を察したのだろう、そういう瑠奈の瞳は悲しみと諦念が入り混じっていた。ショックを受けている私と対照的に、瑠奈は落ち着いていた。彼女は、もはや自分自身の運命を受け入れているのだろうか。
瑠奈は、カルーアミルクを一口飲むと、話を続けた。
「先日、橋の倒壊騒動や、大きな音が街に響いたことを覚えていますか。」
覚えている。あれは瑠奈と初めて会った日の夜の出来事だった。周囲の人間が、あの事件に注目しており、皆口々に別の主張をしていた。
「あれの原因も、新型機の試験飛行における事故だったんです。私が乗っていました。」
ニュースでは橋の倒壊事故、父はヴォイド共感派の工作だと言っており、教授は新型フォースの事故と言っていた。それぞれの立場があって、みな嘘をついていたのだろうか。いや、ひょっとしたらどれも正しいのかもしれない。瑠奈の明かす真実はどれにも繋がっている気がした。
ここで、私はどうしても確認したいことがあった。
「もしかして、瑠奈さんは僕の父を知っていますか。」
「はい、小笠原俊雄さんは私の直属の上司に当たります。新型戦闘機の開発責任者です。」
目の前が真っ暗になったような心持がする。まさか、自分の父が瑠奈を、このような目に合わせているとは。そのような私の奥深い怒りを瑠奈は察したのだろうか。少し慌てた様子で瑠奈は言葉を続ける。
「いいえ、私がテストパイロットになることは、私が生まれた時からほとんど決まっていたようなものなの。修司君のお父さんが就任する前の話です。」
瑠奈はそう言い、遠くを見つめるような眼をした。それは何かを思い出しているようだった。だが、その眼は決して穏やかなものではなく、諦めが混じっているようにも感じたのは、この話の経緯から私が勝手にそう推測してしまったからだろうか。
「それに、修司君のお父さんは……、むしろ私の環境を良くしてくれた。」
父が新型戦闘機の開発責任者であるならば、テストパイロットの瑠奈を知らないはずがない。私が以前、瑠奈のことを聞いた時、父は嘘をついていたのだ。
だが、父が新型戦闘機の開発に携わっていたというのは、納得できる部分もあった。父の研究内容や専門分野から推測できることだったし、何よりもあの仕事狂の父ができあがった理由が、この事実だと理解できた。
私の母であり、父の妻を殺したヴォイド。ヴォイドに、父が凄まじい憎悪を抱いていたことは知っていた。父が仕事に憑りつかれていたのも、ヴォイドの駆逐する為の戦闘機を開発する為だったのだ。
もしかしたら軍事機密であり、危険と隣り合わせの環境だから、父は私を遠ざけようとしていたのか。
瑠奈が語る真実は私に衝撃を与えることばかりだった。私が天井を眺め、自分の思考の処理に意識を割いてソファに沈みこんでいると、瑠奈が、本当に申し訳なさそうに言う。
「ごめんなさい、こんなに多くの事を一気に話してしまって、ショックだったよね。」
私は、返答のしようもない。事実そうなのだ。一日にして、多くの事が起きた。もはや私の思考がオーバーフローしており、返す言葉に困ってしまった。
「少し考えを整理させてください。」
私は額に手をあて、視界を閉ざしながら、なんとか、そう答えることができた。瑠奈は辛そうな表情で立ち上がり、部屋を出ていく際に、か細い声で言った。
「ええ、本当にごめんね。私、シャワーを浴びてきます。」
瑠奈が新型戦闘機のテストパイロットで、父がその開発責任者。世間は狭いな・・・。そうか、それならあの拉致事件での疑問、自分が監視対象だったことは頷ける。ヴォイド殲滅派の急先鋒たるはずの小笠原俊雄の息子が、ヴォイド共感派の旗印になりえる研究をしていた。加えて、機密を多く抱えるテストパイロットと交流していたのだ。殲滅派からしたら、私は不安要素にしかならなかっただろう。
貴彦は言っていた、父も私の解放に尽力したらしいと。父はやはりこのことに巻き込まないように、私をそれとなく誘導していたのだろう。それなのに、私の行動は、自ら渦中に巻き込まれていくような結果だ。不出来な息子で、父には苦労をかけたものだ。
この様子からすると、貴彦も瑠奈のことを知っていて私に忠告したのだろう。瑠奈に関わるな、と。まさか、瑠奈との、あの偶然の出会いがこんな因果を生むとは予想だにしなかった。
教授も父の仕事について知っているようであったし、共感派に強く勧誘しなかったのは、私の立場を慮ってのことことだったのか。
気づかぬうちに、私は多くの人に守られていたのだと感じ入る。その中心にあったのが、私と瑠奈の存在だったのだ。
「八巻瑠奈」
彼女の立場は殲滅派にとって重大なものであり、私の研究がもし完成すれば、世論を共感派に傾かせるかもしれない内容である。その二人が結びついたのだ。両派が注目するのは当然のことだっただろう。私など自らそれに飛び込む形となってしまったが、瑠奈は自分が望んだわけでもない任務に就かされ、今の状況に陥らされてしまった。
彼女との関係を切れば、研究を進めなければ、私は少なくとも一般市民として平穏な人生が歩めるだろう。
だが、瑠奈は、どうなる?
瑠奈がその重責から逃れたいと望んでいるのに、誰かがそれを認めるだろうか。私達が逃亡者となることは、現行の社会システムにおいては、多くのデメリットが存在する。だが、この状況に至ったのは、私が私自身で判断して行動した結果なのだ。
どうして、過去の自分を裏切れるものか。
研究を進めると決めたのは私自身だ。それゆえに、拷問すらも耐えたのだ。
瑠奈と共に逃げると決めたのは私自身だ。何が起ころうと彼女と共にありたいと思う。
私を案じ、慮ってくれた周囲の人間、私の父や師である教授、友人たちにはまた迷惑をかけるかもしれないが、こんな自分だ。身勝手な話だが、できることなら彼らにも理解をしてもらいたい。
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私は瑠奈をこのような状況に追いやった世の中を苦々しく思ったが、
自分が、瑠奈を不幸から救えると思っていたのだ。
自分は、家族がいる、友がいる、好きな人のいるこの世の中を愛していた。
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考えを纏め、自分の決心を再確認していると、心に力が湧いてくる。私が目を瞑り、沈思黙考している間に、瑠奈はシャワーから出てきていたらしい。瑠奈の身体には少し大きい、圭子の白いシャツを着て部屋に戻ってきていた。
髪はまだ濡れている。黒い髪が、少量のアルコールで酔いにぼやけた私の視界に映る。瑠奈の黒髪が間接照明を浴びていて、反射する、揺らめく、その光が美しかった。
「修司君、本当にごめんね。こんなことに巻き込んじゃって。」
シャワールームで、瑠奈も色々と考えていたのだろう。また再び泣いている。灰色で瑠璃色の瞳から、大粒の涙が溢れ出ていたのか、カーペットに涙の滴の跡ができている。
ああ、この女性を自分が救えるのならば、救わなければならない。
私は立ち上がって、瑠奈の謝罪に返答をしようとするが、言葉がとっさに思いつかなかった。瑠奈は、そのままゆっくりと、私の胸に顔を押し当てて、泣きながら言った。
「私、ヴォイドなんかになりたくない。」
『ヴォイド』
ヴォイド、完全なる敵意を持つ人類の天敵。
有機物・無機物を問わず、侵食融合する寄生生物。
通常兵器では破壊できず、異常なまでの再生力を持つ存在。
なぜ、人類に敵意を持つのか。不明である。
殲滅派によると、彼らはウイルスのような存在であり、自然現象として増殖を図っているに過ぎない。共感派によると、彼らが縄張り意識の強い生物であり、人類が彼らのテリトリーを侵したから。
なぜ、侵食融合するのか。
主流の学説では、彼らはデオキシリボ核酸DNAとリボ核酸RNAを持つが、セントラルドグマを持たない。つまり、自己複製の機能を持たないとされる。
侵食融合は他者の機能を利用して、自己の増殖を図っている。加えて、より多様な分業を行えるように他者の機能を自身に取り込むために行われるとされている。
どのように、侵食融合するのか。
彼らの持つDNAやRNAはヒトのものと比較的似ている。つまり、二重らせん構造を持つ。
しかし、ヌクレオチドの構造において、塩基に違いがある。ヌクレオチド構造とは、DNAがリン酸、デオキシリボース、塩基によって成り立っていることを指しているが、ヒトの場合、この塩基の部分に四種類の組成物が存在する。ヴォイドの場合、これが六種あった。
ヒトの場合、4種の塩基はアデニン、チミン、グアニン、シトシンである。ヴォイドはこの4種に加え、もうふたつの塩基を持つ。その塩基の構造は現在でも同定できていない。
塩基の役割は細胞間の通信に使われる暗号だ。4種の塩基を3つ並べることで、4の3乗の並べ方がある。これがそのまま暗号となり、この塩基3つの並びをコドンという。コドンは、どのアミノ酸を生成すべきかを指示する役割を持つ。
人体はこのコドンを用いて、アミノ酸を生成することで多様な形質の発現を可能にしている。4の3乗の並べ方、つまり、64通りが表現できるコドンの数を示している。
ヴォイドにおいては、塩基が2種多いことで、表現できるコドンの数が多い。そのため、指定できるアミノ酸の数がヒトに比べて多くなる。ヒトはαアミノ酸20種を指示生成することで、生体活動を行っているが、ヴォイドはαアミノ酸以外の多様なアミノ酸も生成の指示ができるようになっている。
本来αアミノ酸以外を用いるのは、生物的に不利も大きく、指示が正確に伝わらないケースが出てくると考えられているが、その不正確性、不確実性による揺らぎがヴォイドの特徴かもしれない。
これは、地球に生息する有爪動物門に属するカギムシという生物がヒントを与えてくれるように思う。 カギムシは、種によって足の数が違うなど、遺伝子的にみると割と「いい加減な」作りをしている。だが、進化の過程を経るにあたり、自然淘汰上都合がよかったはずなのだ。
ヴォイドも何らかの合理性があって、αアミノ酸以外を用いてコドンを作っていると考えられている。このことから、様々な物質にヴォイドが付着した際、物質の組成を読み取り、そこから多様な指示を出すことで、侵食融合を可能にすると現在では考えられている。
ヒトが、ヴォイドにただ殺されるだけならば、まだよかった。ヴォイドに殺されずに、生きたままヴォイドになることが、今回の戦争を一段と複雑なものにしていた。
なぜ、通常兵器では破壊できず、驚異的な再生能力を持つのか。
実粒子と虚粒子の関係に近い。それはヴォイドが虚次元存在であり、実次元に顕在しているモノは、虚次元の影だから。
虚次元存在へと影響を与えるには、同じように虚次元存在で干渉する。もしくは実次元と虚次元をつなぐ要素、実粒子の振動と虚粒子の振動により干渉するかの二つの方法に限られる。その前者がフォースであり、後者がウェーヴである。
このヴォイドの虚粒子性が、人間の精神、つまり魂をも侵食する理由であった。ヴォイドに侵食融合されたものは、魂の平穏すらないといわれる所以だ。
こうした事実から、ヴォイドは不定形の存在であり、侵食融合をした対象の影響を強く受ける。見た目は、岩石や金属を取り込んだ無機物よりのものから、軟体動物を取り込んだ全身が筋肉のようなもの、そして「人らしき」形をしたもの。人間に強い敵意を持ち、魂すら取り込む、実次元において、ほぼ不死の存在だった。
新型戦闘機のテストパイロットという重責と恐怖から、一時的にでも逃れ、ひと時でも気を休められたからだろうか、自分の一言で一気に感情が溢れ出したのだろう。
瑠奈はひとしきり泣き、泣き止んでも私の胸から顔を上げず、離れなかった。私は、気休めとしてでも、彼女に掛けられる言葉はなかった。しかし、いくら朴訥な私でも、瑠奈が支えを、抱擁を、必要としていることは理解できた。
暫くして、瑠奈はそのままの姿勢で顔を上げて私を見つめる。気持ちは落ち着いたのだろうか、目の赤さと同様に、少し頬が赤くなっていた。瑠奈の瞳がいっそう深みを増したように見える。私の瞳はきっと月影を映す湖面だったに違いない。
お互いを、どれだけの時間見つめ合っていただろうか。このような時に、いや、このような時だからこそ、お互いの思いは同じになったのだと思う。私がソファに座って、顔の高さを合わせると、瑠奈は私の首に腕を回した。瑠奈が、赤みを帯びた艶めかしい唇を震わせ、小声で囁く。
「もう、さん付けはなしだよ。」
照明を消すと、静かな夜の帳が下りた。
朝が来る。いつもの朝とは違う。今後の行く末について不安はあるものの、心地よい朝だ。隣にいる瑠奈はまだスヤスヤと眠っている。
ベッドに座り、個人デバイスに目をやる。状況確認の為に、電源をオンにしたいところだが、プロメテウスの目が及ぶことを恐れ、それはできない。立ち上がって、窓から外を覗いても、特に怪しい変化は見られない。
安心して、ベッドに座りなおすと、瑠奈が起きていた。瑠奈は寝転がったそのままの状態で、眠そうな目をこすりながら言う。
「おはよう、修司君。」
「おはよう、瑠奈。」
瑠奈は穏やかに微笑む、出会った当初の向日葵の笑顔とは違う。今は、あの眩しくて快活な笑顔というよりも、穏やかな陽だまりの笑みだった。今後も、こうした瑠奈の色んな表情を見ていられるのかと思うと、心が湧きたつ。
瑠奈は寝起き姿が恥ずかしいのか、掛け布団で自分の身体を隠しながら、ゆっくりとベッドから立ち上がり、衣服の乱れを正して、髪を手櫛で直しながら言う。
「何か食べられるものがないか、見てくるね。修司君は少し待ってて。」
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瑠奈のいる世界は本当に美しかった。
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私は自分の身だしなみを整え、今後の行動を考えるためにも、頭をしっかりと覚醒させようと思い、シャワーを浴びに浴室へと入った。
この状況において、私は今までにない充足感に満ちており、つい楽観的な予測を立ててしまう。世界の片隅でだって、この二人なら生きていけるんじゃないか。人里離れた山奥でもに隠れ住むのも一つかもしれない。
プロメテウスも、社会に拠らず社会に貢献しない人間に構うほど、割くリソースがあるわけじゃない。このまま放置も十分に有り得る。とりあえず、ここにいては大に迷惑がかかるし、安心しきれない。大は予備の車を使っていいと言っていたから、足もある。食料を十分に用意して、ここを出よう。
あまりに希望的な見方だが、この時は本当にすべてがうまくいくような気がしていた。
浴室を出ると、自分の空腹に気が付く。味噌汁の匂いが漂い、とても食欲をそそる。
「あ、修司君、シャワー出たかな。朝食用意したよ。」
瑠奈が朝食を作っていた。父の簡単な調理とは違う、手の込んだ和食だった。白米、焼鮭、大根の味噌汁。大は食事にこだわりがあったから食材が豊富に保存されていたらしい。瑠奈のこれまでの経歴を考えると、料理を得手としているのは意外だった。
料理を得意としていた母の事を思い出す。ああ、父はこのような存在を失ったのか、父があれほどまでにヴォイドを憎む気持ちが少し理解できた。
「飲み物は牛乳?お茶にする?」
そう言って、エプロンを纏った姿の瑠奈がこちらににこっと微笑みかけた。
その一瞬と同時に、食卓のある部屋の窓ガラスが一斉に蹴破られ、黒いヘルメットを被った男たちが部屋の中に転がりこんできた。私は、そこから記憶が閉ざされた。
ここまで読んでくださって、有難うございます。
辛口レビューや評価が頂きたい……!
次回もお楽しみいただけたらと思います。
次回は8月15日の火曜日を予定しています。
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知っている人が読めばわかるのですが、
この話はあるゲーム作品のオマージュ要素を多く取り込んでいます。
私はそのゲームの設定に大きく感銘を受けました。
そのゲームが素晴らしいことは言うまでもないのですが、
著者の能力不足により原作設定の全てをそのまま使ったうえで、
説得力を保持させることが難しく、多くの改変がなされています。
もちろん、私自身が考え出したオリジナル要素を中心としているつもりですが、
この話の内容について読者の皆様は様々な印象を受けることだと思います。
著者の意図としては、私が影響を受けたゲームの盗作をするつもりでも、
貶す意図もありません。敬意を持って、自分なりの話を作ったつもりです。
自己判断では、この話を二次創作というほどには近しいものではないと思っております。
ただ、その元ネタとなったゲームには多大な尊敬の念を持っています。
こうした経緯を知っていただいたうえで、このお話の印象を判断して頂ければと思います。
「いやパクリだこれ」「盗作だ」とか、著作権の侵害に該当するようであれば、
この小説を取り下げるつもりです。
もし、この拙著に対して、オリジナリティを感じて頂き、
少しでも楽しんでいただけるようであれば、著者としては幸いに思います。
また、この話の中に登場する科学的な考証らしきものに関しては、
大半がそれらしく見せかけただけのものにすぎません。
何らかの文献に基づき、正確性を持ったものではないこともここで述べさせていただきます。