それって紛い物ですか?
*
そうして薄暗い住宅街の道を突っ切って駅に向かうと、未だ明かりを灯した店が軒を連ねていて、まばらな人の波が往来を漂っていた。僕達はその人の間を縫って自転車を押して歩き、やがてその一つの店へと辿り着く。
「ここ。私がよく通う店だって知ってるでしょ」
彼女はそう言って手早く自転車に鍵を掛けると、店内へと入っていく。僕は慌てて彼女の自転車の隣に付け、後を追った。
自動ドアを潜ると、冷房の効いた涼しい風が汗ばんだ額を撫でた。そう、そこは――。
所狭しと並んだ棚には、無数のCDが並べられている。店内に掛かるミュージックは最先端を行く流行りのものだ。爽快なロックを耳に感じながら、僕は店内の奥でそれを見つめている彼女に近づいていった。彼女はにっこりと微笑み、本当に熱い眼差しでその人を見つめている。その人は――。
シンガーソングライター 清水レイ
彼女はその長身のすらりとした青年を見て、頬を緩ませ、少しだけ朱に染めて、そしてその肌の火照りを言葉に乗せて僕に届けてくる。その青年の鋭い尖った眼差しを受けて、微かに喉を震わせ、指先を揺らせ、小さく囁いてみせる。
「私、この人のこと、ずっとずっと追っていたんだ」
僕は彼女が言っていることの意味が、全くわからなかった。だってこれはミュージシャンで、早矢香とは全く違う星の軌道に乗った、それ自体が強烈な光を放つ星なのだ。そんな人を想っていたって早矢香の言葉は届かないし、それは恋愛をしているとは全く言えないんじゃないか?
「蓮の言うことは、全くその通りだね。でもね、私は元々恋愛なんかしてないのよ」
恋愛なんかしてない? だって、好きな人がいるって言ってたじゃないか。
「それはね、私にはまだ恋というものの経験がないから。そんな気持ちを抱いたこともないし、胸が締め付けられるような感情に気付いたこともない。でも、この人を追っていると、どこかそんな気持ちになれるような気がしたんだ。好きって色々あるけど、私には今のこの「好き」が一番性に合うんだ」
彼女はそう言って清水レイの最新アルバムを棚から一枚抜き出し、それを僕に差し出した。
「蓮にもプレゼントしてあげる。蓮なら、私の気持ち、わかるでしょ? 好きになれない私が、誰かに好きって言われた時、この人のことを思い出すんだ。そうすれば、ほんの少しだけ嘘じゃなくなる。それが私にとっての、救いなんだ」
彼女は押し黙った僕のワイシャツの袖を引っ張り、レジへと行くと、それを買って僕にプレゼントしてくれた。そのCDの小さな重みが、彼女にとっての好きの重みでもあるのだ。そう思った。
彼女はどこか吹っ切れたような笑いを見せながら、黙って僕と隣に並んで店を出た。夜風は涼しく僕らの周囲をすり抜けていった。まるで僕らだけが宇宙の片隅で、ある宝物を発見してしまったような、そんな奇妙な高揚感があった。
まさか早矢香がそんな夢みたいな話をするとは思っていなかったから。そして、少しだけ胸の奥が緩んでいくのがわかった。早矢香がまだそんな人がいないと知って、ほっとしたのかもしれなかった。
「ねえ、蓮。好きな人いる?」
「どうかな……僕みたいな適当で軽い奴、誰も本気だと思ってくれないしね」
通りにはいつの間にか人の流れが消え、ぽつぽつと夜の闇で蠢く影が光を探しているみたいに駅や住宅街へと向かって動いているだけだった。僕らもその影に溶け込み、こんなどうでもいい悩みを抱えていることへの罪悪感を全て夜の底に葬り去ってしまうのだった。
「そんなことないよ。だって蓮、恋してるでしょ?」
早矢香が自販機へと促し、ファンタの缶を買って投げてくる。僕は炭酸を投げて寄越す早矢香の素敵な気遣いに心から感謝しながら、プルトップを開けた。
「してる訳ないだろ。僕こそ、そんな話題はからっきしだ」
「嘘よ。だって蓮、よっちゃんのこと好きじゃない」
ぶほっと思い切りファンタを噴き出し、CDショップの壁へとぶちまけてしまった。
「確かに……確かにそうだな。僕は何度もよっちゃんに告白してるけど、まるで相手にされない」
「瑠衣ちゃんもね、蓮のこと悪く思ってないよ」
「本当なのか? それはつまり、僕にも勝機があるってことだな!」
「あんたがいつも正気でいられればの話だけどね」
そんな下らない会話を零しながら、僕らは笑い合って自転車を押し、ファンタを飲みながら夜の繁華街を歩く。それは恋とは程遠い日々だったけれど、それでもそこには百パーセントの本当を共有できる大切な人との楽しいやり取りに溢れていたのだ。
恋がいつやって来るのかはわからないけど、少なくとも双子の妹との会話は、苦くも、辛くも、甘くもあった。それだけでもう、僕にとっては十分すぎるほど満足なのだ。
恋の感情は紛い物でも、これだけは紛い物じゃないはずだ。それこそ、ずっとずっと大切なものなのだ。
了
お読みいただき、本当にありがとうございました。




