親子【中】
アラビア語で【鉄】を意味する「ハディード」……中東で親父は、そう呼ばれていた。だが、「その名」は日本では意味をなさない。
赤子の時に政府によって存在を抹消され、行旅死亡人……いわば【幽霊】となった親父には、「日本国民」としての身分を証明する物は何も無かった。
「……日本に戻った時、世間は空前の好景気に酔いしれていた。東京の環状線内の土地価格で米国を買収出来ると豪語していた時代だ」
夜の歓楽街は煌びやかなネオンと流行りの音楽に包まれ、個人所得が急激に増えた事により、将来の貯蓄を考えずに我先にと高級品を買い漁る人々。
まるで子供がストローで吹いて遊ぶ【シャボン玉遊び】のように金が消費されていく狂乱の時代か。
「ふふ……懐かしい話だ。俺のような公務員は低所得だと馬鹿にされとった時代だ。同年代の友達によく言われたよ……そんな安月給でよく満足できるな、と。その度に「余計なお世話だ」と言い返していたがね」
笹本さんは苦々しく好景気時代を思い出しているようだった。
「……初めは慣れない日本語と文化、そして生活レベルの違いに驚いたが……不思議と居心地は悪くはなかった。何故なら、私が育った国と似た「空気」を感じとっていたからだ」
……空気? それは治安の事を言っているのか……?
話を聞くかぎり、時代は違えど日本の治安は諸外国に比べて良いはずだが。
「相馬……【光が強ければ影もまた濃い】という言葉を知っているか? ある有名な詩人が残した言葉なのだが」
「……あぁ、知っている。明暗と言う光と影のコントラストだけではなく、人間社会を表現した哲学的な意味も含まれていると記憶しているが……」
詩人の言葉を例えとして時代の情勢を語るのであれば【光】とは表社会、【影】とは裏社会を指す。
当時の日本は好景気に沸き、一見平和そうな装いをしていたが……その実、裏社会も表社会と同様に潤い、その活動範囲と勢力を広げていたと親父は話した。
つまり親父が感じとった【空気】とは表社会に忍びよる裏社会の匂い。
「……笹本さん。私より貴方の方が「その時代」に詳しいはず。裏社会について捕足して頂けますか?」
親父から「時代の話」を振られた笹本さんは、小さく頷き警察官としての立場から、その時代を語った。
「光が強ければ……か。フム……たしかに小野さんの言う通りかもしれん。「あの時代」は良い面ばかりだけではなかった」
従来の「地上げ行為」は勿論の事、株主総会で企業にたかる【総会屋】が台頭し、裏社会の人間が表だって社会進出をしてきた時代だった、と笹本さんは話した。
その後、裏社会の人間達には暴対法が施行され、警察からの厳しい取り締まりに追われるようになる。
「……国籍が無い状態で日本に【入国】した私には、裏社会に身を潜めるしか選択肢がなかった。私自身の出生の情報を集め、何より闇の部分から日本と言う国を見定めるには、裏社会に属している方が当時は都合が良かったのだ」
末端だが組織には労せずに迎え入れられたと言う……親父には中東で学んだ「知恵」や「技術」があったからだ。
そこで日本という国……いや、人間社会の大いなる矛盾に親父は気付いた。
「……私が想像していた以上に日本の社会、経済、政治や宗教に裏社会が根づいていた。まるで深く複雑に絡みあう蜘蛛の糸の如く……だ。そしてそれは切っても切れない物だと理解した」
人間とは不完全な者、内に善と悪が同居する不完全さがあるゆえに人間だ、と親父は言う。
それゆえに不完全な人間が形成する社会もまた【善と悪】が共存するのだと……
「……社会の形成については納得したが、1つの疑問が生じた。それは私がいた国より圧倒的に日本の方が治安が良かったからだ。同じように善と悪が共存していたのに……だ。それは何故なのか? 答えは【善悪のバランス】だ」
完全な善なる社会にする事は人間であるがゆえに不可能……一方、悪を放置し続ければ親父のいた国のように争いが絶えない社会になる。
悪を「享受」するが放置せず、暴走しないように制御する事によって一定の治安は守られるのだと言う。
「……私の【答え】は悪を認めるように聞こえるだろう。その通りだ……全ての悪を断つ事は出来ない。何故なら、それは世界中の全ての戦争を根絶すると言っているようなものだからだ」
共存とバランス……親父は日本を見て、ライオットカンパニーの創設者ライアン・マゴットが掲げる理念と同じ答えを出した。
ライアンは人類を存続させるために「世界のバランス」を維持しようとしている。
親父は日本の「善と悪のバランス」を保つ為に「征龍会」を創設した。
「……ほどなくして、私は故国の治安を守る為、組織を抜けて1人で行動し始めた。とはいえ、何の後ろ楯もなく裏社会と戦い続けて無事に済むわけがない。この街に流れついた時には瀕死の状態だった」
「……そこで「お袋」と出会ったわけか。身元が割れると言い、病院での治療を拒否した親父を、自宅で必死に看病していたと言っていた」
「……妻の小夜子には今でも感謝している。よく私のような身元不明の人間をかくまい、看病してくれたと思っている。私にはすぎた女性だった……それゆえに彼女を深く愛し、共に人生を歩んで行こうとした」
お袋と俺達といた数年が今まで歩んできた人生の中で、最も幸せな時間だったと親父は言う。
だが、その幸福な時間も長くは続かなかった。
「……私の存在を邪魔と感じた裏社会の組織がハウザーに情報を流した。ハウザーにとって私は完成された作品だ。その作品を取り戻すために日本に追手を送り込んできたのだ」
その情報は親父が信用できる数少ない友人からの警告だった。
その時、親父は痛感した【1度でも闇に堕ちた者は2度と光の中には戻れない】……と。
鋭い目付きになった親父は、グラスを手に取ると一気に酒を飲み干した。
「……私は奴等の「やり口」をよく知っている。卑劣な方法で私を追い込んでくるのは分かっていた。妻や子供達を使ってな……そして私は人生で最も辛い決断をした」
……そして、あの朝に続く。
親父が家族を捨てた日へと……
機能が色々かわってビックリしてます




