慟哭【下】
俺に蹴り飛ばされ、派手に床に転がった「化物」は何事も無かったように起き上がってきた。
ゆっくりと……そして、怖気が走る低い唸り声をあげながら。
「…………くっ!!」
逆手に持った包丁を振りかぶり、俺は「化物」の顔面を突き刺そうとしたが……刃先は、顔に届く前に止まってしまった。
いや、無意識に俺が止めたのだ。
突き刺そうとした瞬間、脳裏によぎった「生前」の笑顔が、心の内から必死に練りだした「悲壮な決意」を打ち砕いていた。
まるで金縛りにあったかのように、俺は身動きが出来なくなっていた。
そう……これは恐怖だ。生まれて初めて俺は「真の恐怖」に怯えた。
自らの痛みや死の恐怖など比べものにならない、自分にとって最も親しい者を殺す事……すなわち
「親殺し」……それを実行する恐怖に心底怯えていた。
身動きが出来ない俺に「化物」は容赦なく襲いかかってくる……顎が外れているのかと感じるくらいに大きく口を開けながら……
殺られる……もはやこれまでか、と死の覚悟を決めた刹那。
「兄ぃっ!駄目だっ!」
気絶させたと思っていた正平が、俺と「化物」の間に割って入ってきた。
「っ!?……正平っ!逃げ……」
言い終わる前に「化物」は、正平の首筋を噛み千切った。
頸動脈の辺りから噴水のように血を吹き出し、弟は力なく、もたれ掛かるように俺の方に倒れた。
「兄ぃ……母さんは……まだ……」
正平は、力なく呟くと目を閉じながら意識を失った。
「正平っ!?……うぉおおおおーーっ!!」
裏返るほどの声を張り上げながら、包丁を喉元へ突き刺した。
包丁を根元まで差し込んだ後、俺は「化物」の頭を90度以上捻り曲げ……完全にトドメをさした。
殺ってしまった……この手で母親を……
尻もちをついて倒れた俺は、激しく痙攣している自分の両手を見ても、首筋から大量の血を流している弟を見ても、何も感じなくなっていた。
目の前で起こった事を否定するかのように、頭の中が真っ白になっていた。
そして、ふと思い出したように弟を見て呟いた。
「……そうだ……正平を……助けなければ」
立ち上がろうとしたが足に力が入らない……無様に床に転がり、床に這いながら弟の元に近づいた。
「化物」に噛み千切られた箇所は「ごっそり」と抉れて無くなっていた。
意識が混濁していた俺は、何の策も無く両手で弟の傷口を押さえるのが精一杯だった。
「正平、死ぬな……死んでは駄目だ……」
呪文のように同じ台詞を繰り返しながら、傷口を押えていた時、恐ろしい事に気が付いた。
化物となった「母親」に噛まれた正平が死ねば、化物となって起き上がってくる事実に……
「そんな……そんな事が……」
母親を殺した今、この世に肉親と呼べるのは弟の正平だけだ……その唯一残された家族をも殺さなくてはならないのか?
「で……出来るわけがない。そんな事は絶対に……」
俺は頭を抱え込み、あらんかぎりの声をあげて絶叫した。
どうしようもない現実を突きつけられ、俺は衝動に負けて哭く事しか出来なかった。
それは「魂の慟哭」だった。
かなり投稿期間を開けてしまいました
次話を待って下さった方に大変申し訳なく思っています。
何とか本業が一段落したので、相変わらず不定期ではありますが、更新を続けていこうと頑張ります。
予定では、後2話とエピローグ(みじかい)を含めて2部は終了します。




