絶望
住宅街を抜け、自宅に近付くにつれ喧騒に包まれた街の状況を、俺は目にする事になった。
自家用車のトランクに荷物を押し込んでいる者もいれば、旅行用のキャリーバックを転がしながら夜道を歩いている者もいた。
政府は自宅待機を国民に要請していたが、どうやら我先にと逃げ出す人間が後を立たないようだ。
「何のアテもなく逃げるのか……」
誰に聞かせる事もなく、俺はボソリと呟いた。
環状線にいた大量の化物達は、いずれココにやってくるだろう……だが、逃げ出そうとしている人間達は、誰しもが環状線へと向かっていた。
このような状況下での群集心理とは怖いものだ……
「逃げる」と言う目的が同一であるだけで、結果を予想せずに行動している。
彼らも人を喰い殺す化物の情報は、何らかの方法で入手しているはず……それにもかかわらず、彼らは人が集まる方へ逃げ出そうとしていた。
皆が向かう方向は「正しい」と思いこんでいるのだ。
いずれ、彼らは自分の選択が間違っていた事を「死ぬほど」後悔する事になるだろう。
俺はバイクを急ぎ走らせ、ようやく自宅であるアパートに着いた。
安アパートの階段を駆け上り、2階の玄関の扉から中の様子を伺った。
室内の明かりはついている……ゆっくりドアノブを回して開けようとしたが、施錠されているようで扉は開かなかった。
俺は「バタフライナイフ」を右手に持ち、戸口の左横で構えながら玄関のチャイムを押した。
この体勢なら不審者が玄関から飛び出してきても、素早く殺れる……俺は油断せず身構えた。
暫くすると覚えがある声が聞こえた。
「……誰だっ!新聞ならいらねぇぞっ!」
……この能天気な返答、間違いなく弟の正平だ。
「正平……俺だ。お袋は無事か?」
俺だと分かった弟は扉を開けてくれた。
「アニィっ!無事だったのかよ!良かった心配したぜっ!アニィ……俺よぉ……お袋がよぉ……もうどうしていいか、分かんなくてよぉ~」
正平は項垂れながら狼狽していた。
……お袋に何かあったのだろうか?
藁にもすがる目つきで正平は俺を見ている。
「何があったか順序よく話せ……簡潔にな」
正平は頷くと経緯を話した。
俺が大学に向かった後、お袋は近所に住んでいる料理教室の生徒でもあった独り暮らしの老婆の様子を見に行ったらしい。
正平がお袋に聞いたところ、老婆は酷く衰弱していて……やがて息を引き取ったそうだ。
だが、死んだはずの老婆は急に起き上がり、お袋の右腕に噛みついた……その後、お袋は何とか逃げ出す事に成功し、家に帰る事が出来たが……その後、体調が悪くなり寝込んでいるとの事だった。
「さっきから便所で吐いたり、うなされてよぉ~、俺……見てらんねぇよ。救急車を呼ぼうにも携帯が繋がんねぇしよぉ~」
お袋は化物になった老婆に噛まれた……正平の話が本当ならそうなる。
俺は、お袋の様子を看る為に寝室へと向かった。
「お袋……相馬だ。……大丈夫か?」
「そ……相馬。良かった……無事だったのね。か……母さん、ちょっと具合が悪くなっちゃって……す……少し寝れば良くなるわ……ごめんなさいね」
お袋は額が光るほどに大量の汗を掻き、目の周りにはクマが出来ていた。
「……右腕の包帯を替えるぞ。そのまま横になっていてくれ」
俺は、お袋の傷口を見て絶句した……出血は止まってはいたが、噛まれた傷の周りがドス黒く変色し、血管が浮き出ていた。
そして、肌の温度が死体のように冷たかった……
あの化物になる原因が、ホラー映画のようにウィルスが原因だとしたら……?
お袋は間違いなく感染している……
俺は「絶望」を感じていた。




