マジシャンと魔法使い
どうして睦月くんのお母さんが今になって睦月くんを引き取りたいと申し出たのか。答えは単純明快。睦月くんが欲しかったのではない。子どもが欲しかったのだ。
彼女が睦月くんを置き去りにして行方をくらませた後、どこで何をしていたかなんて知るはずもない。わかっているのは、ある男性と出会い、籍を入れたということだけだ。
彼女の新しい旦那さんは、子どもが望めない体らしい。これから彼女と暮らし始めても、二人の間に子供が現れることはないのだと。
そこで睦月くんが二人の穴を埋める蓋として起用された。なんともお手軽な発想だ。人間、これだけ自分勝手に生きられたら、きっと幸せだ。
「睦月もその方が幸せだ」
母親に引き取らせる、その後に続けたお父さんの言葉が、最初は信じられなかった。
お父さんの言う「幸せ」を英訳しても、絶対に「ハピネス」にはならない。もっと乾いていて、均しきれない皺が刻まれた音になるはずだ。発した人の眼球から潤いを奪う単語になるに違いない。そう思った、はずだった。
「睦月の母親はこの世に一人だけだ。睦月と血が繋がっているのはその人だけであって、お父さんと弥生じゃない。代わりになんて、なれないんだよ」
血の繋がりがなんだ。怒りで煮え立つ頭で即座に言い返した。お父さんの言い分はただの逃げで、責めるのは簡単だった。指をさし、薄情者と罵るだけでいい。
そのはずだった。
「弥生は、あの子に必要とされていると感じたことはあるか?」
もちろん。その一言が、どうしても言えなかった。
マジシャンにならなれただろう。でも、魔法使いは無理だ。
たとえお父さんの目をくらますことが出来ても、私は隠したコインの重みを胸ポケットに感じ続けていなきゃならない。
睦月くんは私たちを必要としてくれたことなどないという確信を、消し去ってしまうことは出来ないのだ。
「睦月はお母さんと一緒に暮らしたいそうだ」
お父さんの声に抑揚はなかった。どこまでも続く砂漠の地平線のように、ひたすら穏やかだった。
睦月くんの部屋の前に立つと、ドアの隙間からわずかに明かりが漏れているのがわかる。ノックをすると、返事の代わりにドアが素早く開けられた。
「弥生ちゃん」
「ごめんね。今、ちょっといい?」
睦月くんは黙って身を引き、私を部屋の中に通してくれた。
睦月くんの部屋は、もともとあまり物がなかっただけに、荷造りしても印象は変わらなかった。目につくものと言えば、勉強机と折りたたみ式ベッド。誰にでも受け入れられるくせに、誰も居座らないビジネスホテルのシンプルさそのものだ。
私はベッドに腰かける。
「明日にはもう行っちゃうんだね、睦月くん」
「うん。いろいろありがとね」
消しゴムを返すような気軽さで言う睦月くんに、私はにっこりと微笑みかけた。
「睦月くん」
「うん?」
「駆け落ち、しよ」
睦月くんは一度まばたきをし、「今から?」と時計に目をやった。
「そう、今から。だって明日には出発するんでしょ?また今度ってわけにはいかないよ」
何か言いかけた睦月くんを、私は笑顔のまま遮る。
「私は睦月くんのこと好きだよ。睦月くんだってそうでしょ?」
お疲れ様です。あとちょっとです。