ながれぼしと羽衣
夏休みが始まってから始めて制服に袖を通す。普段Tシャツやノースリーブなどラフな格好ばかりしていたせいか、久しぶりに着た制服はやけに堅苦しい服装のように思えた。数えてみれば、ブランクは10日程度だった。意外だ。
「ただいまー。あれ、弥生ちゃん、今日学校なの?」
ラジオ体操から帰って来た睦月くんは、制服姿の私、時計、カレンダーと、忙しく視線を移す。夏休みはまだ終わっていないという証拠を探しているようだ。私は笑って、その杞憂を打ち消す。
「夏休み中だけど学校に行かなくちゃいけない日があってね、今日はその登校日ってやつなの。帰るのは昼過ぎになるから、お昼は冷凍食品チンして食べてね。宏くんの分もちゃんとあるから」
「宏くん、今日は来れないんだって。練習試合があるから、午後も空かないからって」
睦月くんは肩をすくめる。
「弥生ちゃんもいないんじゃ、今日は僕一人でゆで卵食べなきゃね」
「いいじゃない、べつに1日くらいお休みしても。宏くんや私が一緒にいる日にまた改めて作ろうよ」
「そういうわけにもいかないよ」
睦月くんは頑なだった。心なしか私を見る目が険しい。
睦月くんは焦っている。時間切れでこの自由研究の完成に自分が立ち会えなくなることを恐れているのだ。
私は少し屈み、睦月くんと目線を合わせた。
「この自由研究はみんなで意見を出し合って、協力して完成させるんでしょう。だったら、睦月くん一人だけでやったって仕方ないよ。みんなで一緒にやろう。大丈夫。まだ大丈夫だよ」
睦月くんの母親が睦月くんを引き取りに来る日は、正確にはわからない。新学期が始まるまでにとしか知らされていないのだ。だから私の言葉に根拠なんてない。
それでも、睦月くんが見せてくれた執着が嬉しかった。ここにいたいと思ってくれている確かな証拠を、みすみす手放したくはなかった。
「それに、睦月くん一人だけのときに火を使わせるわけにはいかないもん。ガスコンロを使うのは、私がいるときだけにして。ね」
私のダメ押しに、睦月くんはようやく顎を引く動きを見せた。私は睦月くんの頭を撫でてから家を出る。
登校日では、全校生徒が体育館に押し込められて校長先生の「夏休みは学生としての在り方が試されますうんぬん」という話を長々と聞かされたこと以外は、事務的に、スムーズに進んだ。
保護者向けのプリントが何枚か配られたり、県内で最近流行り始めた食中毒への注意を呼び掛けられたり。担任の小内先生が、3人目の娘がこの夏休みで生まれたとカミングアウトしたときは、クラス全員で拍手を送った。毎年のことながら、この登校日が何を目的としているのか、まるでわからない。今年もその謎が解けないまま、昼下がりに学校を後にした。
太陽が本当に一つなのか疑いたくなる暑さの下、首に巻いたタオルで額の汗を拭いながら歩く。「女子高生が制服姿でタオル首に巻くとかどうなの?おっさんか?弥生はオヤジなのか?」と以前友だちにデコピンされたことを思い出す。そんな彼女も、さっき別れ道で手を振ったときには、しっかりタオルを首に巻いていた。人は変わってしまうんだなと、熱気で茹だった思考でぼんやりと考えた。
日陰を選びながら歩くうちに、自然と並木道を選ぶルートを辿っていた。普段はローファーに土が付くことを嫌って通らない道だ。すぐ隣には、背の高いフェンスを隔ててグラウンドが広がっている。砂浜のようにまっさらなそこに、人の姿はない。なのに、菱型を形作るベース板が出しっ放しだ。ついさっきまで野球が行われていたのだろう。
フェンスに沿うように歩くうちに、賑やかな声が聞こえてくる。私と同じように木陰に避難したらしき野球少年たちが輪になってお弁当をつついていた。この暑い中、遮るものが何もないグラウンドで練習していたのだろう。ご苦労なことだ。
そのまま通り過ぎ、フェンスが途切れる場所に差し掛かったときのことだった。
「あの」
後ろで声がしたものの、誰か別の人にかけたものだろうと思い、足を止めずに歩き続ける。
「あの、お姉さん」
少し苛立ったような声に、今度こそ振り向く。
ユニフォームを着た宏くんが、野球帽を胸の前で持って立っていた。
「ちょっと、話があるんですけど」
グラウンドに隣接している中学校には、夏休み中だけあって人気がなかった。敷地のあちこちを渡り廊下が横断するなか、宏くんは勝手を知り尽くしているようで、迷いなく歩いている。校舎がちょうど日陰になるスペースで、宏くんが足を止める。
直立不動の宏くんに座るように促し、私は白い壁に寄りかかった。
「睦月から練習試合やるんだって話は聞いてたけど、まさか帰り道で会うとはね。今は休憩中なの?」
昨日も会ったはずなのに、日焼けが一段と濃くなっていることに気付く。さっきまでしていたという練習試合で焼けた分の変化なんだろう。人は変わってしまう。そんなフレーズがまた頭をよぎった。
「睦月、さびしがってたよ。宏くんが来ないとゆで卵の研究が進まないって」
宏くんは足をもぞつかせ、やがて言った。
「それ、本当ですか」
「うん。睦月、宏くんのこと大好きだし」
「おれはそう思いません」
小さな声だった。深く深く根を張るあまりに、光を浴びるために葉を茂らせる余力がない草木のように。
「あいつ、転校するんですね」
「それは睦月本人から聞いたの?」
「あいつから直接聞きました。けど、あいつが自分から話してくれたわけじゃない」
まどろっこしい言い方ですよね、と宏くんは弱弱しく微笑んだ。
「夏休みに入る少し前に、あいつに自由研究に何をするか聞いたんです。そしたら、『僕はやらなくてもいいんだ』と言われました。睦月はけっこう抜けてるところあるし、どうせ先生の話をよく聞いていなかったんだろうと思って『自由研究は出しても出さなくてもいいっていう意味じゃないんだぞ』と笑ってやりました。そしたら、あいつは心外だとでも言いたげにおれに言いました。『本当にやらなくていいんだってば。だって僕、提出する前に転校するんだから』って」
単純に、勘違いを疑われたことに腹を立てている睦月くんの姿が浮かぶ。悪気は決してなかったはずだ。だからこそとても残酷だ。どうしてそこまで目の前にいる相手に対して鈍感になれるんだろう。私は宏くんが受けたであろう衝撃を思い、言葉に詰まった。
「終業式の日になっても、睦月が転校するって話は出ませんでした。クラスの他のやつらもみんな知らないみたいで、『夏休みなんだから、集まって花火とかやりたいよな』とかあいつに話してました。睦月はそれを聞いてもいつもみたいににこにこ笑ってるだけで、『花火だったら図書館の隣のホームセンターにけっこう種類があったよ』とか、そんなどうでもいいことしか言わない。あえて内緒にしているのかとも考えました。言えない事情があるのかもって。おれには、おれだけには、それを破って教えてくれたんじゃないかって、そう言い聞かせてました」
お姉さん、そう呼ぶ宏くんはちっとも子供らしくなかった。
地団太を踏めばいい。なんなんだあいつ、人を舐めやがってと罵ればいい。宏くんにはそうする権利がある。
なのに、彼はそうしなかった。
誰を責めてもこのさびしさがなくならないことを知っている彼は、本当に、子供らしくなかった。
「睦月はおれと離れ離れになることなんて、なんとも思っていないんですよね」
そんなことは。反論しようとする私を、宏くんは目で制した。流れ星に3回お願い事を言えれば叶うんだよ、そう言い張る小さな子どもを見下ろす大人の目だった。優しい。そのくせ、とんでもなく隔たっている。
「一緒に自由研究してれば良い思い出になるかなって思ったけど、ダメですね。会うたびに、明日はもういなくなってるんじゃないかって気がしちゃって。あいつ、たぶん何にも言わずにこの町を出ていく。そうわかってるのに、もう少しだけ時間があれば気まぐれを起こすきっかけがあるかもしれない、睦月がちゃんと自分からお別れを言うんじゃないかって期待を捨てきれない」
僕一人でゆで卵食べなきゃね。今朝の睦月くんを思い出す。睦月くんにとってのゆで卵は、天の羽衣だ。取り返しさえすれば、私たちのことなんてこれっぽっちも顧みずに飛んで行ってしまう。ひた隠す私たちの気持ちなんて、おかまいなしだ。
宏くんに反論してあげられない、嘘の一つもついてあげられない自分が、ひどく惨めだった。
流れ星にお願いなんて、1度だってちゃんと言えたことがない。それくらい私だってわかっている。