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おいしいと真逆

 夏休みに入ると、睦月くんは誰に起こされるでもなく自主的に早起きし、ラジオ体操へと出かけていくのが恒例となった。

 「ただいまーっ」

 同じく夏休みに突入した私が普段通りの時間に起きていくのと、睦月くんが軽い足取りで居間に駆け込んで来るのがほとんど同時だった。

 「おかえり睦月くん。そしておはよう」

 「あんまりおはようって時間じゃないけど、おはよう弥生ちゃん」

 「充分、おはようって時間だよ。毎朝よくやるねえ」

 あくびをしながら蛇口をひねり、寝起きの1杯をマグカップに溜める。眠気の振り払い方は人それぞれだけど、私の場合は水道水を飲むのが一番有効だ。鉄の味が混ざった水が下へ下へと降りていく感覚を追うと、眠気で散った意識があるべき場所へと戻っていく。

 「そうだ。弥生ちゃんって今日、家にいる?」

 新しく食パンの封を切り、私の分もまとめてトースターに突っこんだ睦月くんが、思い出したように声を上げる。

 睦月くん同様、私も夏休みに入っている。部活をしているわけでもないし、夏期講習もまだ先なので、平日は基本的に暇だ。

 「特に用事はないから家にいようと思うけど、なんで?」

 「さっきラジオ体操に行ったときに宏くんに会ったんだけど、午後から家に来たいんだって。連れてきてもいい?」

 宏くん。睦月くんの会話によく出てくる名前だ。仲の良い友だちらしく、彼のことを話す睦月くんはいつも楽しげだ。なんでも、少年野球のチームに所属していて、運動がとても得意らしい。

 「いいよ。ただし、午前中にちゃんと宿題やっちゃいなよ」

 新学期には別の学校に行く睦月くんには、宿題を課す存在が曖昧だ。だから、今まで通っていた小学校から配られた教材をやらせるようにしている。

 睦月くんは「はーい」と元気に答えると、冷蔵庫から取り出したマーガリンをテーブルに放り出して 電話をかけに廊下へと出ていく。宏くんにOKの旨を伝えるのだろう。

 小さく聞こえる睦月くんの話声の明るさに、私は一人息をついた。



 宿題は比較的涼しい時間帯である午前中にすませること。

 いつ聞いたか思い出せない訓示を胸に自分の部屋の机に向かい、古典の口語訳が区切りがついたところでチャイムが鳴った。

 ドアの向こうから睦月くんが玄関へと突進していく足音が聞こえる。宏くんだろうか。目の前に置いた卓上時計を見ると、正午を少し回ったところだった。

 もうお昼か。睦月くんに昼食を作ってあげなくては。私たちだけで食べるのも心苦しいから、宏くんの分もあった方がいいだろう。そんなことを考えながら居間に顔を出すと、睦月くんの隣に私と同じくらいの背丈の少年を認めた。

 「あ、弥生ちゃん」

 私に気付いた睦月くんが、傍らに立った少年の肩を叩いて私の方を向かせる。

 「この人が高木宏くん。宏くん、この人が弥生ちゃんだよ」

 「お邪魔してます」

 「あ、どうも。姉の弥生です。いつもお世話になっております」

 丁寧なお辞儀に、私も慌てて会釈を返す。

 宏くんはスポーツをしているせいか、睦月くんと同い年とは思えないほど精悍な体つきをしていた。日に焼けた浅黒い肌に、光源を刻銘に刻む黒目がよく映えている。小学生とは思えないほど凛々しい印象を受ける子だった。

 「睦月くん、そろそろお昼にしようと思うけど、冷やし中華でいい?宏くんも食べていくよね?」

 台所に向かう私を、睦月くんが「ちょっと待って」と引きとめる。

 「せっかくだから、弥生ちゃんにも協力してもらおうよ」

 睦月くんは宏くんに笑いかけた。宏くんは困惑したように私と睦月くんを見比べ、口ごもっている。

 「何?どうかしたの?」

 「弥生ちゃん、ゆで卵、好き?」

 バカ、と宏くんが睦月くんを肘で小突いた。睦月くんは屈託なく続ける。

 「夏休みの宿題でゆで卵の研究をするんだ。弥生ちゃんにも手伝ってもらえたら、きっとはかどると思うんだけど、どうかな」

 睦月くんの話では、ゆで卵の研究を思いついたのは宏くんらしい。

 小学生の夏休みの宿題には、ドリルや漢字の書き取りといった、普段学校でしているような勉強の他に、自由研究という、やっかいで憎めないものがある。

 何をしてもいいとは言われるが、それはどんな出来になってもいいという意味ではないのだ。水晶のように透き通ったミョウバンの結晶を作ったとか、国道の交通量を自分で数え上げてグラフに起こしたとか、ハワイ旅行から持ち帰った砂海水浴場の砂を日本のものと顕微鏡で見比べた結果だとかを発表するクラスメイトたちの前で、アサガオの観察日記をつけて「植えて2日目に双葉が顔を出しました」と言うしかなかったときの惨めさは、高校生になった今でも鮮明だ。

 「ゆで卵の研究って、具体的に何をするの?」

 私の質問に、宏くんが渋々と言った体で答えてくれる。

 「ゆで卵をどれくらい茹でれば一番おいしくなるかを調べるんです」

 「宏くん、ゆで卵大好きなんだよ。毎日野球の練習の後に欠かさず食べてるんだから」

 なんとも率直で単純な動機だ。適切な反応を返せずにいる私に思うところがあったのだろう。宏くんは居心地が悪そうに唇を噛み、私と目を合わせようとしなくなってしまった。

べつに恥じ入るようなことではないのに。肩を叩いてそう諭そうとして、宏くんのTシャツの肩幅の部分の布が余り、垂れていることに気付いた。成長期特有の「すぐ大きくなるんだから、ちょっと大きめのサイズの服にしておきなさい」の方針が取られているのだろう。

 同年代にはもう見られなくなった習慣。私と同じような背丈でも、この子はまだ睦月くんと同じ、小学生なんだ。今さらながらに実感した。高校生の私に自由研究の話題を出すことに躊躇いを覚えるのも、自然なことなのかもしれない。「まとめ。アサガオは朝早くに咲きます」と発表したあのときの気持ちが蘇る。真面目に水をやり、無邪気に開花を喜んだ夏休みのすべてを否定したくなった、あの色濃い劣等感。

 私は宏くんをとても好きになっていることを確信していた。

 「いいじゃん、面白そう。私もベストな茹で時間、知りたいな。一緒にやらせてよ」

 助けを求めるように宏くんは隣を見る。

 その視線に、睦月くんはにっこりと無垢な笑みを返した。

 「よかったね宏くん。人数は多い方が楽しいもんね」



 宏くんは野球部の練習が終わると我が家にやって来るようになった。夏休みの練習はほとんどが午前中だけらしく、いつも昼食を作り終わったのを見計らったようなタイミングでチャイムが鳴る。

 仕事に出かけていて空席になっているお父さんの席に宏くんが座り、3人で昼ごはんを食べる。それが習慣になった。

 この自由研究が始まって以来、我が家の昼食のレパートリーから卵料理が消えた。というのも、主催者である宏くんが宣言したからだ。

 「卵は栄養があるからこそ、1日に1個までしか食べちゃいけないんです」

 その許された1個をゆで卵に回すのだと言う。

 「ゆで卵をスライスしてみんなでちょっとずつ食べていけば、1日に茹で時間が違う卵を何個も食べられるし、すぐ終わるんじゃない?」という睦月くんの発言に、宏くんは傷ついたような顔をした。最初こそ、その決まりの悪さの正体は睦月くんに効率の穴を指摘されたことによるものだと勘違いしたものの、「おれはべつに急いでないし」とつぶやいた宏くんの声が、負け惜しみの持つ剣呑さをまるで含んでいないことに気付き、私は一つの可能性に思い至った。

 宏くんは、少しでも長く睦月くんとの自由研究を続けていたいんだ。

 可能性が確信に変わるのは一瞬だった。私も同じ思いでいたからだ。

 「睦月くん、野暮なこと言わないの。ゆで卵は一つの卵として完成された料理なんだから、丸ごと1個食べないと味の判断が出来ないでしょ」

 「そういうものなの?」

 「そういうものなの。白身から徐々に黄身へと伝わる熱。楕円のなかに込められたドラマを追うことこそゆで卵の研究の真理。ね、そうでしょ宏くん」

 「え、ああ、はい」

 宏くんは面喰ったようではあったが、ちゃんと大きく頷いた。

 こうして、私たちは毎日1人1個ずつゆで卵を食べるという、大変贅沢な時間の使い方で自由研究を進めることになったのだ。

 ピンポーン、とチャイムが鳴る。ちょうど3人分のナポリタンをテーブルに並べたところだった。

 睦月くんは宿題に手こずっているらしく、まだ部屋から出てこない。今日は私が玄関に出た。

 「いらっしゃい。今日も暑かったでしょう」

 私が出てきたことに一瞬驚いたように、宏くんは目を見開いた。

 「どうも。お邪魔します」

 玄関のタイルを踏む前に、宏くんはしっかり腰を曲げてお辞儀をする。この子の礼儀正しさは借りてきた猫のそれではなく、運動部で鍛えられた筋金入りのものだということは、この数日でよくわかった。脱いだスニーカーを丁寧に揃えている背中に声をかける。

 「睦月くんはまだ宿題してるみたい。今呼ぶね」

 「あの、お姉さん」

 宏くんの声の硬さにちょっと驚く。そんな私の反応に、宏くんもひるんでしまったようだった。少し、間が空く。

 「ちょっと話があるんですけど」

 意を決したように宏くんが口を開こうとしたとき、廊下の奥でバタンと扉が開く音がした。

 「弥生ちゃーん、今日の分の宿題終わったよー。宏くん、もう来てるよねー?」

 宏くんの両目が睦月くんの声のした方へと流れる。そのときの表情が苦々しいものであったことを、私は見逃さなかった。

 「今来たところなんだ。すぐ行く」

 廊下の奥へとそう返し、宏くんは打って変わった小さく抑えた声で言った。

 「やっぱり、また今度でいいです」

 「そう?」

 私は首をかしげながらも、早足に睦月くんのもとへ向かう宏くんの後に続いて居間へと戻る。

 3人で食卓を囲み、手を併せた。

 「まずフォークでひとすくいしてから巻き始めるんだ。そのときに、ほら、こうやってスプーンを使って」

 スパゲッティの巻き方に苦戦している睦月くんに、宏くんが手本を見せている。

 「そんなまどろっこしいことしなくても食べれるんだからいいじゃん」

 睦月くんは拗ねたように言いながらも、ちゃんと宏くんに倣ってフォークを回している。こうして見ていると、友だちというよりは兄と弟のようだ。面倒見の良い宏くんが、なにかと睦月くんを気にかけてくれている。微笑ましい。

 食事を終えると、本題であるゆで卵の研究に移る。

 「今日は12分30秒茹でます」

 水を入れた鍋に卵を3つ入れて火を点ける。睦月くんが宏くんの指示通りにタイマーをセットし、宏くんは火の加減を調整している。同じ温度で茹でるために、ガスコンロのつまみは、ちょうど半分のところまで回すように統一しているのだ。科学者さながらの几帳面さでゆで卵に向き合う二人を、私はただ見守るだけだ。

 茹で時間は30秒ずつ増やして味の変化を見比べる。。

 味の印象を忘れてしまわないためにノートに感想をまとめ、評価をつけていくのは、発案者である宏くんの仕事だ。

 「昨日食べたやつよりも黄身が固まってきたね」

 包丁で真っ二つに切ったゆで卵の断面図を見て、嬉しそうに睦月くんが声を上げた。

 宏くんは持参したデジカメで写真を撮り、昨日のものと比べている。私も覗き込んでその映像を見せてもらったけど、大して変わっていないように見えた。30秒しか増やしていないから、そう簡単に変化が現れるとは思えない。

 睦月くんが「絶対固くなってるよ。だって黄身の色が濃いもん」と断言するものだから、私と宏くんは顔を見合わせる。

 「そうだな。けっこう違うな」

 宏くんがぎこちなく言ったから、私は否定するでもなく黙って自分の分のゆで卵をかじった。歯の間から液状の黄身がじゅうと染み出してくる。まだ半熟の域だ。好みはそれぞれだけど、「まだ茹で時間が足りない」ということで今のところ3人の意見は一致している。おでんくらい煮詰めた方が好きな固ゆで派の私としてはまだまだ全然物足りない。が、それはあえて公言しないことにしている。

ゆで卵がしっかり固まり、満場一致の最高の味になるより先に、睦月くんがこの家を出ていく日が来るかもしれないからだ。

 「うん、やっぱり昨日よりずっとおいしくなってる。僕は今日の味が一番好きだな」

 睦月くんは2日目以降、ずっと同じ感想を繰り返している。

 今日の味が一番好き。だから、次がなくても大丈夫。それは些細ではあっても、確かな伏線だった。

 睦月くんは確実に、いなくなる準備を始めている。

 宏くんは黙ってゆで卵を味わい、やがて言った。

 「確かに昨日よりおいしいとは思う。でもおれはもうちょっと黄身がしっかり固まってる方が好きだな。明日はもっとおいしくなる」

 明日はもっと。

 睦月くんと宏くんのセリフが目指すベクトルは、悲しいほどに真逆だ。


ゆで卵のベスト茹で時間は13分だと教えてもらったことがありますが、どうなんでしょうかね。これでだいたい半分に差し掛かりました。お疲れさまでした。ここまで来たなら最後までいきませんか、ね?

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