どうしてと回答
お父さんが帰って来るのは、いつも睦月くんが寝てしまった後だ。
居間で宿題を片付けていた私は、鍵が回る音で顔を上げる。
壁にかけられた時計を見ると、11時半だった。
音を抑えるために丁寧に玄関のドアが閉められる気配がして、スリッパが床を擦る音が近づいてくる。
「ただいま。勉強してたのか」
お父さんは私がテーブルに広げていたノートやプリントを見て、細かくまばたきをした。
私はいつもお父さんの帰りを待たずに自分の部屋に引っ込んでいるから、こうして居間で顔を合わせることはあまりない。珍しいと驚くのももっともだろう。
お父さんは帰って来るとまずお風呂に入る。その後、私が作り、ラップをしておいた夕食を、一人で食べる。そして寝る間際になると私の部屋を訪れ、「おやすみ」とだけ言う。その際、私は机に向ったまま振り返らないか、ベッドに入って狸寝入りをしているかのどちらかだ。だからお父さんが普段どんな表情で私に接しているのか、よく知らない。
「お風呂入ってきなよ。ごはんの準備しておくから」
椅子から立ち上がって勉強道具を片づけ始める私を、お父さんが慌てたように制す。
「いいよ、それくらいお父さんが自分でやるから。それより勉強が大変なんだろう?弥生はそっちに集中しないと」
「いいから。お風呂入ってきなよ」
今度は少し大きな声で言った。睦月くんは起きなかっただろうかと少し心配になる。これからお父さんと話すことを、睦月くんには聞かれたくなかった。
お父さんは私がむっつりと黙りこんだまま台所へと向かうと、諦めたように自分もクローゼットへと向かい、着替えを持って風呂場に行った。
また私一人になった居間を台所から眺め、一つ息をついてから鍋に水を溜める。火にかけるためにコンロに移し、鍋との接着面を覗き込む。シュボッと青い火が輪になって走る音が、唯一の音源となって静けさを際立たせた。
いつからだろう。鍋の水が沸騰するのを待ちながら考える。
いつから、私たちは3人家族になったんだろう。いや、もとから3人家族だったのだ。メンバーが入れ替わっただけで。
我が家にはお母さんにあたる人がいない。私が睦月くんくらいの年のとき、事故で亡くなってしまったのだ。それ以来、一時的にお父さんと私だけの2人家族になった。
また3人家族に戻ったのは、睦月くんが来てからだった。
「親戚の子を預かることになったから」
ある日、お父さんに手を引かれて家にやって来た男の子がいた。それが睦月くんだった。
正直、睦月くんの印象はよく覚えていない。ただ、玄関で脱いだ彼の靴は驚くほど小さく、こんな窮屈なサイズで大丈夫なんだろうかと心配になったことは不思議と記憶に残っている。脱いだまま散らばった彼の靴を、私は黙って揃えた。嫌味のつもりでやったわけではないのに、次から睦月くんは自分でちゃんと揃えるようになった。それを後ろめたく思ったことも、覚えている。
預かるという宣言に、期間の説明が加わることはなかった。
なかなか事情を説明しようとしないお父さんがようやく口を割ったのは、たしか睦月くんが犬を拾って来たときと前後していたような気がする。
睦月くんにはお父さんがいない。死んだのか離婚したまま縁が切れたのか、そもそも認知されていたのか、お父さんも知らないという。一方、睦月くんのお母さんは親戚に睦月くんを押し付けて行方をくらませたらしい。お父さんの説明ではそれが何を意味しているのかわからなかったものの、たまにかかってくる親戚からの電話を盗み聞きしているうちに全貌がわかってきた。
睦月くんのお母さんは、他所に男を作った。そして睦月くんが邪魔になった。だから捨てた。睦月くんを最初に預かった親戚は、養育費のあてもない小さな子どもの世話をすることにいい顔をせず、たらいまわしにされるうちに我が家まで流れ着いたということだ。
「睦月のお母さんは必ず見つかるから」
お父さんは睦月くんと私に繰り返しそう言い聞かせた。それは置き去りにされた睦月くんを励ますための言葉を装いながら、同時に「弥生も、もう居候に心を砕かなくてよくなるからな」という見当違いの労いも込められていた。お父さんにとっては、睦月くんは同情に足りても、しょせんただの居候であって、最初から最後まで家族とはなり得ない存在だったのだ。
必ず見つかるから。
その言葉通り、何年も経った今になって、睦月くんの母親は現れた。別の男性と結婚し、睦月くんを引き取りたいのだと申し出てきたという。
そしてお父さんはそれを了承した。睦月くんが転校するのは、そのためだ。
スリッパが床を擦る音がまた聞こえてくる。
私は皿に盛ったそうめんをテーブルに運び、お父さんの席の向かい側に腰かけた。
居間に戻って来たお父さんは、特に何をするでもなく食卓についている私を見て、何かを悟ったらしい。高く積まれた跳び箱を前にした運動音痴の子のように、足の踏み出し方も忘れて立ち尽くしてしまった。
私は何気ない調子で「座れば」と言った。傍らでは点けたテレビからバラエティの賑わいがたしかに漏れ聞こえてくるのに、どこかで誰かが笑っているという事実が、ひどく嘘くさいことのように思えた。
席についたお父さんは、無言で箸を取り、そうめんをすすり始める。
私はテレビに、お父さんは食事に、それぞれ気を取られているふりをしていながら、お互いが相手の出かたを窺っているのは明らかだった。わざとらしい沈黙に、自分が持て余しているのと同じもどかしさが織り込まれているのを肌で感じていながら、身動きの一つでより強く擦れてしまうようで、迂闊なことが出来ない。
そんな消耗戦のなか、先に口を開いたのはお父さんだった。
「何か変わったことはあったか」
間髪入れずに答えるのは大人げないような気がして、私は努めてゆっくりと返す。
「何もないよ、私は」
「そうか」
それきりまた黙ってしまったお父さんに、ありったけの失望を込めて言う。
「睦月くんには、あったみたいだけど」
これ以上お父さんのだんまりに付き合っていたのでは本当に夜が明けてしまいかねない。私はお父さんの口から「睦月がどうかしたのか」という、形だけであっても、もう一人の家族を気遣うセリフが出てくるのを諦めて話を進める。
「今日、睦月くんのクラスメイトの女の子と会う機会があって、そのとき教えてもらったの。彼女、 睦月くんから転校の話を聞かされていなかったんだって。先生もクラスの子に話していないみたい。今日が学校に行く最後の日だから、クラスの子たちが睦月くんの転校を知るのは、睦月くんがとっくにいなくなった夏休み明けになる。お別れも言わずに、言わせてもらえずに、睦月くんこのままこの町を離れるみたいなんだけど、お父さんはこのこと知ってた?睦月くんと先生に口止めしたのはお父さんなの?どういうつもりなの、ねえ」
まくしたてながら、私はどこかでお父さんが反論のために口を挟むことを期待していたのかもしれない。だから、途中で水を差されることなく用意していたセリフを最後まで言い切ってしまった今、どうしようもなく体から力が抜けた。
「半分正解」
お父さんはぽつりと言った。
「先生に秘密にしてくれるようにお願いしたのはお父さんだよ。そしてお父さんにそうさせたのは睦月だ」
「睦月くんが、自分からクラスのみんなに内緒にするように言い出したの?」
笑っていた。「嫌な冗談だよね」と同調してくれる人が誰もいないことに気付いて、持ち上がった頬が徐々に下がっていく。
「どうして」
どうして睦月くんは誰にもお別れを告げずにいなくなろうとしているのか。どうしてお父さんはそれを許し、あまつさえ協力してしまうのか。どうして私はこんなにやるせないのか。浮かんだすべての 「どうして」に、答えがほしかった。正解ではない。気休めとしての回答が、ほしかった。
「どうしてだろうな」
お父さんの声に滲んでいたのは、疑問ではなく、ぐったりとした諦めだった。どうして人はいつか死んじゃうんだろうね、そう訊ねたとしても、同じように返したことだろう。
どうしてだろうな。
転校する子は本当に居座るスパンが短くて、接し方がわからなかったですね。「私、2学期いっぱいまでしかここにはいないから」と宣言されると、どこまで踏み込んでいいのかわからなくなってしまうというか。去り際に配られた鉛筆やらノートは使えずじまいでした。