やさしさと消去法
「怒ってる?」
食卓の対面座席でそうめんをすすっていた睦月君が、ふと箸を止めて言った。
私はテレビのチャンネルを回していたものの、面白いと思えるものが見つからなかったから、諦めてリモコンを置く。
「何に対して言ってる?」
「今日、弥生ちゃんを置き去りにして水野さんと遠くまで遊びに行っちゃったこと」
睦月君が頬を人差し指で掻く。決まりが悪くなったときの、彼の癖だった。
「ごめんね。僕から誘ったのに、弥生ちゃん蚊帳の外みたいな扱いになっちゃって。そりゃ、面白くなかったよね」
クーラーを動かす電気代を節約するため、我が家では網戸から入る風だけで、なんとか夜の熱気をやり過ごしている。椅子に腰かけていると、膝の裏側にクッション部分がじかに皮膚に当たって汗ばむ。食事中にやるのは行儀が悪いのは承知で、私は椅子に尻を乗せたまま、体操座りの要領で足を抱え込んだ。
「睦月くんはさ、もし私がいなかったら、あのままあの子と二人で逃げちゃってた?」
「あの子って、水野さんだよね?」
「他に誰がいるのよ」
つい責めるような強い口調になってしまう。間を誤魔化すように、グラスに半分ほど残っていた麦茶を煽る。ヤケ酒みたいだなと思った。フッたのもフられたのも、私じゃないのに。
「付いて行ってたと思うよ」
「ホントに?」
「かけおちだもの。二人一緒に逃げなきゃ意味がないんでしょ?水野さんだけ行かせたら、それはただのお見送りじゃない」
睦月くんは、私が今しがた空にしたばかりのグラスに麦茶を注ぎ、手に取りやすい位置に戻してくれる。こういうところを見ると、この子は本当に気が利くし、親切だとも思う。でも、優しくはない。
「どうせ、『夕ご飯までには帰らなくちゃいけなから』とでも言って、今日中には戻ってくるつもりだったんでしょう」
私の声に込められた非難に、睦月くんは不思議そうな顔をしている。
「最後までちゃんとかけおちをやり遂げた方がよかった?」
「それはダメ。私が止める」
「でしょ。だから途中まで一緒に行って、遅くならないうちに帰って来ようって決めてたんだ」
何をそんなに怒っているの?言外にそう尋ねてくる睦月くんは、マジシャンに踊らされている観客のように、消去法しか頭にない。
コインはどっちの手にあるか当てればいいんですね?じゃあ右。あれ、左から出てきた。ということは、左手に持ってたんですね、悔しい。次こそは当てますから。今度は左。あれ、右から出てきた。まだまだ。当てるまでやりますよ。
そんな調子じゃ、たとえ何百回やってもコインの居場所は当てられない。コインが一枚きりだと思っているかぎり。イエス・ノーの二択から離れられないかぎり。
正解はどちらにもあるし、どちらにもいなくなれるのだから。
「睦月くんはさ、水野さんのことが本当に好きだったの?」
「うん、好きだよ」
即答。電卓に計算させたような明解さだった。ミスも無駄もない。ついでに言えば、ありがたみもない。
「睦月くんの言う『好き』と、水野さんの『好き』は全然違うと思うなぁ」
氷の入ったグラスには、びっしりと水滴が纏わりついている。幼い頃は、グラスに水滴が付く仕組みなんて知らなかったから、私たち人間と同じように、暑いから汗をかいているんだと思っていた。でも、高校生になった今ならわかる。グラスが暑がっているのではない。周りの空気が、その冷たさに捕まり、姿を変えられてしまったのだ。自由に飛び回る気体から、身動きの取れない液体へ。
私は、筋を作って滑り降りていく水滴を親指で拭った。
涙みたいだなと思った。温度差の産物は、人肌を思わせるようにぬるく、私の指にすぐ馴染んだ。
「まったく、罪な子だよ君は」
「だから謝ってるじゃん。ごめんなさい、もう勝手なことはしません」
「そういうことを言いたいんじゃないんだってば」
手を伸ばして鼻をつまんでやると、睦月くんはあからさまに嫌な顔をした。
「どうだ、痛いだろう」
「痛いし、息出来ないよ」
「苦しいでしょう」
私の笑みが声だけのものだと気付いている睦月くんは、特に抵抗を見せなかった。されるがまま、鼻をつままれている。
「水野さんは、もっと痛くて苦しかったと思うよ」
一度、ガスコンロのレバーをひねる要領で鼻をねじってから、解放する。
鼻がひん曲がっていないか、手を当てて確認する睦月くんは、私を恨めしげに睨む。
「弥生ちゃんは優しくない」
「睦月くんに言われたくない」
「僕はちゃんと誰にでも優しいよ」
もう一度手を伸ばし、今度は労わるように、睦月くんの鼻筋を撫でた。睦月くんはやっぱり抵抗しなかった。たとえもう一度つねったとしても、たぶん睦月くんは眉間の皺をさっきより増やすだけで、私の手を振り払ったりはしないだろう。
彼が信じる優しさとは、決して拒絶しないことだ。だから水野さんに付いて行ったし、私が血眼で探しに行かなくていいように同行させた。どちらにもいい顔をしているようで、どちらの気持ちもないがしろにしている。
拒絶はしない。否定もしない。でもそれは同調じゃない。ただ無関心なだけなのだ。
「そういうのを優しさとは言わないのだよ、睦月くん」
つぶやくような私の言葉に、睦月くんは小首をかしげたまま答えなかった。
コイン消失マジックのタネ明かしをされたとき、一つ大人になったような気がしたものです。おいそんなのありかよきたねえぞと。でもタネを知りたくなるという矛盾。うーん。