ふうせんと大気圏
大通りは通行人の数も多かったものの、二人はあっさり見つかった。女の子のウエディングドレススタイルは遠目からでもよく目立ったからだ。
手を離れた風船。
さっきの沖内くん言葉が、白いワンピースを翻しながら歩く彼女に重なる。
1日分の埃を持て余した夕方の街中で、彼女はとても清らかで、だからこそ浮世離れして見えた。
背広を着たサラリーマンや、ビニール袋からネギをはみ出させて歩く主婦、肩を寄せ合うようにして並列で自転車を漕ぐ学生たち。
信号で足止めされるわずかな間にも横断歩道の向こう側を見つめる横顔から、道行く彼らの到着地点のビジョンが垣間見える気がする。彼らを地上に留めているのは重力なんて難しい理屈ではなく、もっと俗っぽくて、使い古された生活臭なんだろう。これから帰りつく先に自分が辿りつけると信じて疑わない慣れきった足取りが、彼女にはないように思えた。
勇んで大股になっている歩調に、重そうな荷物を持たされた睦月くんが少し遅れて続いている。私は見失わないようにだけ気を付けて歩く。
歩道橋を渡り、踏切を通り過ぎ、人気のないトンネルをくぐり、バスに乗り、そして降りた。また歩く。
どこかから子どもの帰宅を促す物悲しい音楽が聞こえてくる。近隣の小学校からだろうか。私たちの住む地域には流れない、聞いたことのない曲だった。
どこまで行くんだろう、とさすがに不安になりだしたとき、ようやく女の子が足を止めた。
そこは港だった。コンクリートで埋め立てられた足場のすぐ先に、何の遮蔽物もなく海水がたゆたっていて、大小様々な舟がその小さな波の動きに倣ってわずかに揺れている。
二人が前にしているのは、このまま外国まで行ってしまいそうな3階建の大きな船だった。
睦月くんは首を反らせて見上げている。はしゃいでいるのは背中姿からでも充分わかった。その反面、女の子の後ろ姿からは何も読みとれない。海から吹いてきた風が、彼女のワンピースの裾を持ち上げ、くっきりと靴下焼けをした跡がちらりと見えた。
あの子、普段はスニーカー派なんだな、とそんなことを思った。西日を白く照り返すサンダルは新しいものに見える。ここに来るまでにけっこう歩いたし、靴ずれをおこしていなきゃいいけど。
「瀬野くん」
ソプラノの声が、船に夢中になっていた睦月くんの関心を地上へと引き戻す。
私はポシェットから携帯を取り出し、耳に宛てて通話しているふりをすることで怪しまれないように二人に近付き、顔を見られないようにと背を向けて会話を傍聴する。
「どうして私がここまで瀬野くんを連れてきたと思う?」
「どうしてって、かけおちでしょ。水野さんがそう言ったんじゃん」
「駆け落ちの意味、わかってる?」
その質問はもっともだけど、私は白いワンピースを着た彼女に、たくさんの荷物を詰めた鞄を用意してきた彼女に、普段はスニーカーを履いているはずなのに今日はおろしたてのサンダルを履いてここまで歩いてきた彼女に、それに対する睦月くんの答えを聞かせたくなかった。
「知ってるよ。男女が二人で遠くに逃げ出すことでしょ」
「なんだ、知ってるんだ。意外。瀬野くん、そういうのに疎そうなのに」
「残念でした。見直した?」
朗らかに笑う睦月くんに、彼女は笑い返しただろうか。振り返って確認するだけの甲斐性は、私にはなかった。
「瀬野くん、本当に転校しちゃうの?」
心なしか速い口調のように思えた。
「よく知ってるね。教えてないのに」
「私の掃除場所、職員室なんだ。だから先生が他の先生と話してるの聞こえて」
話してなかったのか、と私は一人息を呑んだ。
睦月くんはこの夏休みを境に転校する。引っ越すのだ。手続きはすべてお父さんがしたから私は何も関与していないけど、普通転校するときはクラスメイトに一言言い置いていくものじゃないだろうか。 お父さんはこのことを知っているのだろうか。先生は?たしか今日が睦月くんの小学校の終業式だったはずだ。学校から帰って来た睦月くんの荷物から、紙袋に入った引き出しを見た覚えがある。引き出しを持ち帰るのは1学期の最終日だったはずだ。今日がクラスメイト全員と顔を合わせられる最後のチャンスのはずなのに。今日やらなくていつやるの?
「教えないで行っちゃうつもりだったの?」
口を挟んでしまったのかと戸惑うほど、彼女のセリフのタイミングは、私がその疑問に辿りついたときのそれとまったく同じだった。
「うん」
「どうして」
「どうしてって、べつに深い理由なんてないよ。聞かれなかったからとしか言いようがないな」
そう答える睦月くんからは、悪びれたり開き直ったりする様子がまったく感じられなかった。私にはそれがどうしようもなくひどい裏切りのように思えた。
「じゃあ、私が聞いたら教えてくれた?」
「うん。隠すようなことでもないし」
「じゃあ、一つ教えてほしいんだけど」
「うん」
「瀬野くん、私が一緒に逃げてほしいって言ったら、付いて来てくれる?」
やけに大きな汽笛が鳴った。空気を震わせて長く伸びる音は、遠ざかっていくに従って芯を細くしていく。絵の具を含ませた筆が、徐々に色をなくし、水気だけを紙に残していく軌跡を思わせた。滲んだ音はやがて耳にだけ残り、それもすぐに消えた。
「私、瀬野くんが好きなの。転校して離れ離れになっちゃうなんて嫌なの。だから私と一緒に駆け落ちしてほしい」
彼女の声はきっぱりとしていて、迷いがなかった。その踏切は、飛び越えるのではなく、飛び降りるときのそれに似ていた。
重力から切り離されたように空へと沈んでいく風船がふと浮かんだ。
大気圏は越えられないという沖内くんの言葉が蘇る。
そうだ、風船では大気圏を越えられない。
問題なのは、風船は誰の手も届かない場所に行ってからでないとその現実にぶつからないということだ。
私は携帯を閉じると鞄にしまい、大きく息を吸った。
「睦月ぃ!」
たった今見つけましたよといった体で肩をいからせながら二人へと近づく。
女の子は突然の乱入者に言葉をなくし、睦月くんは「弥生ちゃん」とぱっと笑顔を輝かせる。
「さんざん探したんだよ!黙ってこんなところまで来て、いったいどういうつもりなの!心配したでしょうが!」
睦月くんが余計なことを口走る前に、有無を言わさない勢いを心がけて女の子を怒鳴りつける。
「あなたも!こんな時間にこんな遠いところまで弟を連れだすなんて!あなたの親はあなたがここにいることを知ってるの?家族を心配する身にもなりなさい!もしあなたに何かあったらあなたの家族がどんな思いをするのか少しは考えなさい!もう小学生でしょう!」
彼女は唇をわななかせ、見開かれた両目からは今にも涙が滲み出そうだった。改めて向かい合ってみると、こんなに怒りに満ち満ちた表情であることを踏まえても可愛い子だということがわかる。
「私は」
純白のワンピースは、握りしめられた裾に沿って全体的に皺が寄ってしまっている。この子はもうこのワンピースを着ないかもしれないな、となんとなく思った。
「私は、瀬野くんが好きなんです。お姉さんであっても、口を出してほしくない」
二酸化炭素は空気より軽かったっけ。思い出せない。ただ一つ確信を持っているのは、この子の呼気を含んだ風船は宙に浮くだろうということだ。地上を離れ、大気圏に撥ねつけられ、しぼみ、人知れず落ちていくということ。それに待ったをかけられる人間は、ここには私しかいないということだ。
睦月くんに「何もしゃべらないように」と伝えるために目配せをしようとして、それが要らぬ世話だったことを思い知らされた。
睦月くんは興味を失ったように、つま先を地面にこすりつけてコンクリートの感触を楽しんでいた。
長く息を吐く。肺を空にしないと、彼女への心からの憐憫を言葉に含ませてしまいそうだったからだ。
切り捨てるように、夢を見るなら睦月くんではなく私が出てくるほど恨んでもらえるように、可能なかぎり冷たく言い放った。
「あなたの恋愛ごっこなんて、私の知ったことじゃない」
ここまででだいたい4分の1くらいです。せめて半分くらいまではお付き合い願いたいです。すみません。