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かけおちと小宇宙

 「ちょっとかけおちしてくる」

 ランドセルを降ろすのもそこそこに睦月くんがそう言ってまた玄関へと引き返すものだから、私は読んでいた本を栞も挟まずに閉じてしまった。

 「いってきまーす」

 「ちょ、ちょっと待って睦月くん」

 靴ひもを締めるために屈みこんだ睦月くんのもとに駆け寄り、両肩を掴む。

 「あれ?ひょっとして弥生ちゃんもこれから出かけるの?大丈夫。僕もちゃんと鍵持って出るから」

 「そういうことじゃなくて。睦月くん、これからどこに行くって?」

 私の必死の形相に、睦月くんは大きな目をいつも以上に見開いて白黒させている。

 「公園だよ。神社の近くの」

 「・・・ごめん、聞き方が悪かったね。何しに行くの?」

 「かけおち」

 かけおち。駆け落ち。英語だとどんな単語になるんだろう。フォーエバーグッバイだろうか。法律は駆け落ちを禁止していたっけ。私は姉であって保護者ではないけど、睦月くんは18歳以下なのだから、止める権限くらいはあるんじゃないだろうか。未成年の法律行為の禁止。これだ。小学生のした約束事なら、この一文で取り消せる。問題は、私も未成年だということだ。そうなると、保護者にあたる人間の登場が不可欠だ。お父さんが帰ってくるのはまだ何時間も先。とても待っていられない。私が何とかしなくては。どうしたらこの一瞬で成人になれるんだろう。

 とっくに死語になっているものだと決めつけていた単語が思わぬところから登場したショックで、適切な二の句が告げられない私をどう思ったのか、睦月くんはやわらかく笑いかけてきた。

 「弥生ちゃんも一緒に行く?」

 「えっ、なんで私?」

 「人数は多い方が楽しいじゃない。それに弥生ちゃん、とても留守番なんてしてられないって顔してるし」

 たしかにそれはその通りなのだが、駆け落ちに他の女を連れていくのって、どうなんだろう。待ち合わせているであろう女性は、当然睦月くんと二人で逃げ出すことを想定しているはずだ。家族が付き添っていたら形無しというものだろう。

 「無理にとは言わないよ。ただ、そろそろ僕は行かないと」

 肩に置かれた私の手をいつの間にかやんわりと解き、睦月くんは外に通じるドアに手をかけている。

 「わかった、私も行く。ただ、睦月くんが誘ったんじゃなくて、私が勝手に付いていくんだからね」

 「同じことでしょ」

 「全然違うの。ほら、もう歩き始めてて。神社の隣の公園だったね。私はばれないように離れて後ろを付いていくから」

 「同じことだと思うけどなあ」

 腑に落ちないとばかりに小首をかしげる睦月くんをドアの外に押し出し、私は居間へと引き返す。鍵、財布、携帯をポシェットに放り込んで肩から提げ、ガスの元栓が閉まっていることを確認してから外に出る。

 鍵をかけてから家に接する道に出ると、少し離れたところから睦月くんがこちらを振り返っていた。

 「ねー、離れて歩く意味ってあるのー?」

 「あるの!黙って尾行されてて!」

 怒鳴る私を、ジョギング中らしいおじさんがすれ違いざまにしげしげと眺めてくる。

 私は臆することなく、角を曲がった睦月くんの尾行を堂々と開始する。



 広い庭や立派な門構えのある古い民家を縫うようにして、アスファルトの道を行く。

 ハイビスカスによく似たむくげの花がそこかしこの塀から覗いているのを見つけると、剥き出しにした腕が訴える西日の鋭さからよりもずっと、夏を身近に感じる。

 遅れて公園の敷地に到着した私が緑色のフェンス越しに中を窺うと、睦月くんはブランコに腰かけた女の子のもとに近付いていくところだった。

 遠目だから顔の造りまではよくわからないけど、背恰好から見ても、睦月くんと年が離れているようにはとても思えない。おそらく同級生だろう。

 それにしても、小学生のうちから駆け落ちなんて思い詰めた発想を持ちだすとは、最近の子の考えることはつくづくわからない。前倒しのイベントにばかり夢中になっていたのでは、大人になったときにやりたいことがなくなっちゃうんじゃないだろうか。

 背の低いツツジの生け垣の影に身を隠すようにしてしゃがんでいると、足元にフワフワしたものが当たってくる。なんだかむずがゆい。

 雑草でも触れているのだろうと思って目線を二人から離さないまま手で払いのけようとすると、予想していたよりずっと大きなものに触れた手ごたえが返ってきて、不審に思い、ちらりと脇を見る。

 「わんっ」

 「っ!」

 犬だ、と認識したときにはすでに尻もちをついていた。何の受け身も取れないままひっくり返った痛みは、そのままパニックを助長する。腹筋に力を上手く込められないまま「あああ」と上ずった声が漏れた。立ち上がれないまま、浮かせた足だけが地面を蹴れているものだとばかりに空回りする。腹をさらしたカメのもがきによく似ていたことだろう。

 「そんなに驚かなくても」

 犬の上あたりから、笑いを含んだ声がして我に帰る。

 犬から徐々に視線を上げていくと、たるんだ赤いリードの先に、笑いをかみ殺している沖内くんがいた。

 「人の行動にとやかく口を挟むことはおれの理念に背くことだけど、元クラスメイトのよしみとして言っておいてやる。相手が小学生だからといって覗きが許されるわけじゃないんだぞ」

 にやにやと私を見下ろす沖内くんを忌々しく睨みつける。

 「それじゃ、私も元クラスメイトのよしみとして忠告してあげる。犬をけしかけて人を脅かすなんて。親しき仲にも礼儀ありって日本語、覚えた方がいいよ」

 醜態からの回復を計る私を、沖内くんは容赦なく笑い飛ばした。

 「親しき仲の場合だろ。そのことわざ、おれと瀬野には当てはまらないと思うけど」

 たしかに。正論に、言葉がつまる。

 私と沖内くんは中学時代のクラスメイトだった。卒業してからもうずいぶん経つけど、その間連絡を取り合ったことはない。私たちが共有していたのは教室くらいだったから、それも当然だろう。

 沖内くんは、良くも悪くも、周りに同調しないタイプだった。

 自由時間と見なされがちの自習の際は、周りがおしゃべりに興じるなかで、一人だけ黙々と課されたプリントに取り組んでいた。真面目なのかと思えば、おそろいのハチマキを巻いてみんなが即席の団体意識に燃える体育祭では、隅の方であくびをかみ殺していたり。

 決して浮いていたわけではない。なのに、彼とは同じ空間を共有していないような気がしていた。

 クラスで集合写真を撮ったら、たしかに沖内くんもちゃんと映るだろう。でも、私はその1枚の写真に、透明なセロハンが貼りついているような気がしてならないのだ。めくってみれば沖内くんだけが一人そこに描かれていて、切り離されたように浮かび上がる。もともとはまったく違う絵だったのだと気付かされる。重ねられていたからわからなかっただけで、本当はそこにいなかったのだと。

 彼からは、そんな誤魔化された遠近法の存在をいつも感じていた。

 サンダルから覗く私の足先を嗅いでいた犬が、また「わんっ」と吠える。

 そうだ、沖内くんと共有していたものが一つだけあったんだっけ。

 私はちぎれんばかりに尻尾を振っている犬を顎でしゃくる。

 「ちょっと。こっちは潜入中の身なんだから、その犬黙らせてよ」

 「ライカはおれに似て正義を地で生きるやつなんだ。小学生の可愛らしい恋路を詮索して楽しむような変態には一言申したいんだろうし、おれもその意思を尊重したい」

 「誰が変態よ。言っておくけどあっちの男の子の方、私の弟だから」

 ズボンの後ろに着いた土を払ってからしゃがみ直し、ついでに沖内くんもしゃがませる。立ったままでは公園の中の女の子に不審に思われてしまいかねない。

 「見覚えない?その犬を沖内くんにあげるとき、弟も一緒だったんだけど」

 私と沖内くんが、ほぼ唯一共有したもの。それは、ついさっきまで名前すら知らなかったこの犬だ。

 以前、睦月くんが捨て犬を拾ってきたことがあり、飼えない我が家に代わって引き取ってくれたのが沖内くんだったのだ。

 隣にしゃがみこんだ沖内くんは公園の中の二人に目を凝らしていたけど、やがて「わかんね」と首を振る。

 「で?なんで瀬野は弟に隠れてこんなことしてんの?やっぱスト―キングなの?おれ、おまわりさん呼んで来た方がいい?」

 「呼ばなくていいよ。合意の上なんだから」

 「おまえ、いよいよ言い訳が変態くさいぞ」

 呆れる沖内くんをよそに、私は合流して何事かを話し込んでいる二人を注視する。

 遠目だから女の子の顔立ちまではよくわからないものの、彼女の服装は眩しいほどに目立っている。

 くるぶしまで届くほどの長い純白のワンピース。肩まで下ろされた真っ直ぐな髪の頂では、カチューシャが夏の日差しを白く照り返している。夏らしく、一番眩しい光を集めたような出で立ちだ。

 「なんか雪女みたいだな」

 ぼそりとつぶやいた沖内くんに肘鉄砲を食らわせる。

 「なんだよ痛えな」

 「なんで妖怪の名前を出してきちゃうかな。せめてウエディングドレスみたいだな、とかそういう気の利いたこと言えないの?」

 「いや、その例えもどうかと思うぞ」

 「いいの、ウエディングドレスで。だってあの子ら、これから駆け落ちするんだから」

 「はあ?」

 「しっ。動き始めた」

 合流の際の挨拶も一通り終わったのか、二人はブランコを離れ、二つある公園の出入り口のうち、ここから離れた方へと歩いていく。

 歩き出した睦月くんの手には、遠目からでもそれとわかるほど膨らんだ旅行鞄が提げられている。女の子が前もって用意してきたものなのだろう。遊具の影になって気付かなかったけど、あんな大荷物を持ってきていたとは。予想以上に模範的な駆け落ちぶりにため息が出る。

 「うわ、ちょっと1泊って量の荷物じゃないだろ、あれ。瀬野の弟、マジで家出するんだな」

 「家出じゃなくて駆け落ちだよ」

 「どっちも似たようなもんだろ」

 「全然違うよ。家出は帰って来るのが前提だけど、駆け落ちは相手がいるんだからそういうわけにはいかないでしょ」

 「瀬野、おまえ少し頭冷やした方がいいぞ」

 沖内くんは嘆かわしいとばかりに首を力なく振る。

 「両方小学生だぜ。風船が手から離れたからって宇宙まで行っちまうなんて、まさか信じてないだろ?」

 「小学生の馬力なんてたかが知れてるって言いたいの?」

 私はじっとりと沖内くんを睨む。

 「あのすごい荷物見たでしょ?相手の子は絶対本気だよ」

 「そう簡単には大気圏なんて越えられないから大丈夫だろ」

 ライカと名付けられた犬を撫でながら、沖内くんは人ごとだと思っていることを隠しもせずに言う。

 「スト―キングを許すくらいだから、少なくとも瀬野の弟は本気じゃないんだろ。そんな中途半端な結びつきで越えられるほど大気圏の抵抗は甘くない」

 沖内くんが中学時代宇宙マニアだったことを思い出してげんなりする。天文部もあったというのに、そこには所属せず、文芸部の幽霊部員として放課後は図書室で宇宙関係の図鑑を眺めていたのを何度も見かけた。

 どうして天文部に入らないのかと一度聞いたことがある。

 「おれは生きているうちに到達出来ないような遠い宇宙には興味がない」

 沖内くんが開いていた図鑑に載っていた写真は、青空をバックにしたスペースシャトルのものばかりだった。宇宙と聞いて私が想像するような銀河の類の写真は一切ない。

 「星空にロマンとか感じたりしないの?」

 私の質問に、沖内くんは図鑑から一度だけ目線を上げ、すぐに手元の図鑑へと戻した。

 「感じない」

 「どうして」

 今思えば、どうして私は大して親しくもなかった沖内くんと会話を続けようとしたのか不思議だ。

 私自身、人に説けるほど宇宙に興味はなかったのに、なぜかあのときは沖内くんが魅入っているスペースシャトルの狭さが妙に気になった。

 地球よりずっと大きな星が、ぶちまかれた水飛沫の一滴にしか見えないほど広い宇宙に、写真の中の船内はあまりにも狭く、それがひどく理に反しているように思えたのだ。

 「星との距離を考えると、ほとんどの星は地球人の寿命じゃ絶対に辿りつけないところにあることがわかるんだ。星によってはすでに存在しないのに光だけがここまで届いているってのもある。おれは絵に描いた餅を眺めて味わえた気になれるほど想像力がない」

 「育てればいいのに」

 「やだよ。腹が減っているのを自覚することほど虚しいことはないだろ」

 「それって結局星が好きだって認めてるようなものじゃん」

 大真面目に子どもっぽいことを言う沖内くんがおかしくて笑ってしまった。沖内くんは面白くもなさそうに「そういう問題じゃないんだよ」とぶつくさ言っていたんだっけ。

 「本当に宇宙好きなんだね」

 こっちは弟の一大事なのだ。いくら好きだからといって引き合いに出されても興ざめするほかない。

 「私はもう行くね。二人を追わないと」

 立ち上がり、小走りに二人の歩いて行った方向へと足を向ける私に、「瀬野!」と後ろから沖内くんが声をかけてきた。

 「弟によろしく。犬、元気にしてるからって」

 私は振り返ったものの、咄嗟には言葉が出て来なかった。

 雨に濡れ、弱りきった子犬を抱えて帰って来たあの日の睦月くんを思い出す。

 借家暮らしの我が家では犬など飼えるはずもない。

 遠回しに「もと居た場所に返してきて」と言われているのだと悟った睦月くんの言葉を、私は今でも忘れない。

 「見殺しにしろって言うんだね」

 いっそ怒鳴って漫画でもリモコンでも投げつけてくれた方がマシだとすら思った。

 睦月くんは怒っていなかった。泣いてもいなかった。

 ただ事実を淡々と確認していた。明日は雨が降るんだね、そう空模様を眺めているみたいに、そこには諦めと形容するのもはばかられるような、絶対的な無抵抗だけがあった。

 もし私がそれ以上何か言ったら、睦月くんは黙って犬を家から連れ出しただろう。そして一番流れの速い川にその犬を放りこんだだろう。犬が水に呑まれて見えなくなるのを黙って見届けていただろう。雲から落とされた水滴がアスファルトに叩きつけられ、ひしゃげた跡を濃く残すのを見てもなんとも思わないのと同じ理屈で、何の感慨も持たずに一度はその目で見た存在をきれいに忘れてまた家に帰って来たことだろう。

 だから私はそれ以上睦月くんに何も言わず、自分で飼い主を募ることにした。

 捨て犬の飼い主探しは大変だ。

 我が家と同じように環境を理由に断る人が大半だし、一戸建てで犬好きな人はすでに犬を飼っていたりするから、新入りをほいほい受け入れることも出来ない。命を一つ預かるというのはそれだけ容量が求められるのだ。私もそれくらいのことはわかっていたし、だからこそ睦月くんに犬を諦めるように諭したのだから、41人いたクラスメイトのうち40人が首を横に振っても、犬を自分の家で飼うようにと心変わりすることはなかった。

 そして頷いた41人目が沖内くんだった。

 「犬の名前は?決めてあんの?」

 犬を抱えて沖内家を訪れた私と睦月くんのうち、沖内くんはなぜか交渉した私にではなく、私の後ろで黙っている睦月くんにそう訊ねた。

 「沖内くんの家で飼うんだから、沖内くんの家で決めていいよ」

 黙ったまま話し出す素振りも見せない睦月くんに代わって私がそう答えた。

 「おれ、命名権とかどうでもいいから。付けたんなら教えて。呼ぶとき困る」

 私は睦月くんに答えさせたくなくて、沖内くんから隠すように少し立ち位置をずらしたことを覚えている。それでもなお、私の後ろを透視するかのように睦月くんから焦点を外さなかった沖内くんの責めるような視線から、睦月くんを庇いたかった。庇いたくなるほどには、その後ろめたさの正体を自分でも気付いていた。

 「名前は付けてないです」

 背中から睦月くんの声がした。

 「どうせ呼ぶこともないだろうから」

 そう答えた睦月くんが、少しでも傷ついてくれていればと思った。振り向いて彼の表情を確認するだけの勇気は、私にはなかった。

 私はライカを抱き上げた沖内くんに手を振り、返事の代わりにした。


お疲れ様です。酷なようですが、まだ続きます。頑張って目を走らせてほしいです。

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